マウソロスとアルテミシアの生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 04:21 UTC 版)
「マウソロス霊廟」の記事における「マウソロスとアルテミシアの生涯」の解説
マウソロスは、紀元前377年から紀元前353年にかけて小アジア西部のカリア国を統治したアケメネス朝ペルシアの知事(サトラップ)である。紀元前377年、マウソロスは父の後を受け、カリア国の統治者となった。当時、カリア国は小アジアの西部地中海沿岸にあったペルシアの一州であったが、首都から離れていたことに加え、当時の州知事であったマウソロスの父がかなりの野心家で、近隣の都市や地域を支配下におさめていたため、事実上の独立国であった。そして、息子マウソロスもまた、さらに領土を拡大し、最終的には小アジアの南西部全域を手中に収めようとした。マウソロスとその妹であり妻のアルテミシア(カリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習であった。家族内の力や富を維持するためというのがその理由のひとつである)は、首都ハリカルナッソスとその周辺地域を24年にわたり支配することとなる。 マウソロスは、ギリシア語を話し、ギリシアの生活や政治にあこがれていた。そして、ギリシアの諸都市が海岸沿いに造られ、民主主義の伝統を推奨する優れたものであることに気づいた。このためマウソロスは、これらの都市に劣らないような壮大にして難攻不落の首都を建設しようと決心した。この首都に選ばれたのがハリカルナッソスである。 マウソロスは、ハリカルナッソスを武人の統治者にふさわしい都にしはじめた。敵の攻撃に備えるため、町に面している湾を深くし、その掘り出した土で海峡の防御を固めた。さらに、城壁や見張り台も設置された。また、市場に隣接して大きな港を造り、その奥に隠れた小さな港も造った。この港は敵の不意を着く攻撃に適していた。一方、内陸部では一般市民のために、広場や道路、家の整備が進められ、4つの門と2つの大通りが造られた。そして、ギリシア風の劇場や戦争の神アレスを祀った神殿なども建設された。湾の一画には、マウソロスの巨大な要塞型宮殿が建てられた。この宮殿は、海から、敵の攻撃目標となりうる丘の上までしっかり見渡せた。 紀元前353年、マウソロスがアルテミシアに先立って亡くなると、アルテミシアは夫に感謝の意を示すために、当時の世界で最も美しい墓を造ることを決心した(マウソロスの生存中からこの墓の計画があった、あるいは建設がすでに始められていたとも考えられている)。これが、マウソロスとアルテミシアの名を永く残すことになる大霊廟である。 霊廟の建設開始後すぐに、アルテミシアは自らに迫る危機に気づくことになる。マウソロスの死の知らせを聞いた地中海の征服地ロドス島が、反乱を起こし、首都ハリカルナッソスを攻略すべく海軍を送ってきたのだった。このことを知ったアルテミシアは、大きな港の奥にあった秘密の港に自分の船を隠した。そして、ロドス軍が上陸を開始すると、アルテミシアの海軍は横から奇襲をかけ、見事にロドス海軍を撃破した。その後、アルテミシアは機転を利かせて、自らの軍を敵船に乗せてロドス島攻略に向かわせた。ロドス人たちは、自分たちの海軍が勝利して帰ってきたと勘違いしたので、防御することもできずに町は陥落し、反乱は鎮圧された。 マウソロスの死から2年後、アルテミシアも後を追うようになくなった。伝説によれば、彼女は夫マウソロスの遺灰をワインに混ぜて飲み、悲しみのうちに息絶えたといわれている。この伝説から、アルテミシアは献身的な妻の象徴にもなっている。マウソロスとアルテミシアの遺灰を入れた骨壷は未完成の霊廟に収められた。そして、生贄として大量の動物の死骸が霊廟に向かう階段に置かれ、出入りできないように石やレンガで階段は埋められた。プリニウスによれば、霊廟が完成する前に依頼主が亡くなったのに建築家たちが工事を中断しなかったのは、この霊廟が自分個人の栄光と手腕の記念になると考えたからだという。
※この「マウソロスとアルテミシアの生涯」の解説は、「マウソロス霊廟」の解説の一部です。
「マウソロスとアルテミシアの生涯」を含む「マウソロス霊廟」の記事については、「マウソロス霊廟」の概要を参照ください。
- マウソロスとアルテミシアの生涯のページへのリンク