ポル・ポトへの協力と幽閉生活
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「ノロドム・シハヌーク」の記事における「ポル・ポトへの協力と幽閉生活」の解説
「カンボジア内戦」も参照 追放されたシハヌークは、当時3つの世界論を掲げてアメリカとソビエト連邦の両方と対立していた中華人民共和国の北京に留まり、中華人民共和国からの全面的な協力を得て亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」を結成し、ロン・ノル政権打倒を訴えた。 1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2~3万人の農民が共産主義の影響を受けていた。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州で同様の蜂起が起こった。シハヌークは個人的に親しい周恩来と対立する康生が後押しするポル・ポト派をかつて弾圧したこともあって嫌っていたが、中国の毛沢東や北朝鮮の金日成らの説得により彼らと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。 シハヌークは名目上、統一戦線のトップではあったが、ポル・ポト派とはロン・ノルという共通の敵を保有していただけに過ぎなかった。あらゆる古い体制の徹底破壊を目指す原理的共産主義を掲げるポル・ポトとその一派にとって、シハヌークはイデオロギー的に相容れない存在であり、両者の関係は最初から緊張をはらんでいたといえる。 アメリカが南ベトナムを見捨て、クメールを含むインドシナ半島から完全撤退したこともあり、1975年4月に中華人民共和国からの武器援助を受けたクメール・ルージュは遂にクメール全土を制圧した。クメール共和国は崩壊し、ポル・ポト派はシハヌークを国家元首とする共産主義国家「民主カンプチア」の成立を宣言し、シハヌークはカンボジアに帰国した。この間、表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたシハヌークだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメール・ルージュがお膳立てした地方視察(そこでシハヌークは変わり果てた祖国の姿を目の当たりにする)以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。同居を許されたのは第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)及び僅かな側近、従者だけであった。 他の家族のうち、国内に残っていた者は地方に追放され、その結果、5人の子供と14人の孫が虐殺された。当初は、シハヌーク自身も殺されそうになったものの、中華人民共和国政府が政治的理由からポル・ポトらに圧力をかけたために殺されずに済んだ。しかし、王宮内でもポル・ポト信奉者と化したナリンドラポンが両親を非難し続け、シハヌークは「いつ殺されるか」という強迫感も相まって、精神的に追い詰められていった。人々は黒い農民服(英語版)を着用させられ、自らも着せられたシハヌークは「黒いメルセデス」と自嘲した。1979年までにポルポト政権下で深刻な飢餓とマラリア、虐殺により100万人以上のカンボジア人が犠牲になったとも言われる。 シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだがクメール・ルージュに拒絶された。それでも彼は懇請を続けた結果、1976年4月に国家元首の辞任が認められ(後任の国家元首〔国家大幹部会議長〕はキュー・サムファン)、以後王宮内に幽閉されたシハヌークは外の様子を知る事ができなくなり、国際社会には消息が伝えられなくなった。
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