パロアルト研究所時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:55 UTC 版)
「アラン・ケイ」の記事における「パロアルト研究所時代まで」の解説
マサチューセッツ州のスプリングフィールド生まれ。3歳で文章を流暢に読み、早くから才能を見せていた。アメリカでの教育についてのインタビューで、「私は幸か不幸か、3歳のときに流暢に読めるようになっていた。だから1年生のころにはたぶん150冊ぐらいの本を読んでいた。そして、私はすでに先生が嘘を言っていることを知っていた」と述べている。 コロラド大学で数学と分子生物学の学士号を取得。同じ頃、彼はプロのジャズギタリストとしても活動している。コロラド大学に入る前、彼は士官候補生として空軍に入隊しており、自分にコンピュータ・プログラミングの才覚があることを知る。 1966年ユタ大学大学院工学部に進学し、修士号と博士号を取得している。そこでアイバン・サザランドの下で Sketchpad を含む先駆的グラフィックスアプリケーションを開発した。この経験がケイのオブジェクトとプログラミングについての観点を発展させることになった。ARPAの研究が忙しくなったため、プロのミュージシャンとしての経歴は途絶えた。 1968年シーモア・パパートと出会い、LISPを教育向けに最適化した方言であるLOGOプログラミング言語について学んだ。そこから発展して、ジャン・ピアジェ、ジェローム・ブルーナー、レフ・ヴィゴツキーらの業績や構成主義についても学び、それらからも強い影響を受けた。 1970年、ケイはゼロックス社のパロアルト研究所の設立に参加した。パロアルト研究所には1970年代を通じて在籍し、自ら提唱する理想端末「ダイナブック」を、当時利用可能な技術で具現化した暫定的ハードウエアである「Alto」と、エンドユーザーが自在にプログラミング可能で、それを全方面からサポートする機能を有する暫定的環境「Smalltalk」の開発において指導的立場をとった。このSmalltalk環境の動作するAlto(暫定ダイナブック)を見学する機会を得たスティーブ・ジョブズが、そのアイデアを大いに取り入れてLisa、続くMacintoshを開発した、というのは有名な話である。 ケイとパロアルト研究所の同僚は、オブジェクト指向プログラミングというアイデアの生みの親でもある(すでに言語機能としての「クラス」と「オブジェクト」を備えたノルウェーのオルヨハン・ダールとクリステン・ニガードのSimula 67があったが、これらの言語機能と自らのアイデアである「メッセージング」と組み合わせて「オブジェクト指向」と称したのはアラン・ケイが最初。なお「オブジェクト指向」は後にビャーン・ストラウストラップにより「カプセル化・継承・ポリモーフィズム」として再定義される)。彼の提唱した「ダイナブック構想」は、持ち運び可能な小型パーソナルコンピュータ(ノートパソコン、タブレット、電子書籍)の原型であり、ウィンドウ型グラフィカルユーザインターフェース(GUI)のさきがけとも言われている。ケイは、真上を向いていたマウスポインタを斜め45°でデザインし直した。ダイナブックは教育用プラットフォームとみなすこともできるため、ケイはMラーニングの初期の研究者の1人とされることがある。実際、ダイナブック構想の多くの特徴がケイも積極的に関与した教育用プラットフォーム One Laptop Per Child (OLPC) の設計に採用されている。 パロアルト研究所で10年すごした後、ケイは3年間アタリの主任科学者を務めた。
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