パルマの情勢とトラエッタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 09:51 UTC 版)
「トンマーゾ・トラエッタ」の記事における「パルマの情勢とトラエッタ」の解説
当時のパルマは、大規模な体制の中にある都市とは言い難い小規模な公国であったと言わざるを得ないが、在職中の公がスペイン人でその夫人がフランス人であるという風変わりな公国であった。パルマは通常、統治者がオーストリア人とスペイン人との間で交代しており、当時の公はフェリペ王子であった。そしてこの公はフランス王ルイ14世の長女と結婚した(これはヨーロッパの歴史上でも相当複雑な王朝間での結婚である)。その結果、当時のパルマにはあらゆるものをフランス風のものにしようとする熱狂が生まれ、特にヴェルサイユの輝かしさを定着させようとしていた。そのためパルマにはジャン=フィリップ・ラモーの影響が及んだ。そしてトラエッタのオペラが新たな方向を目指し始めたのもパルマでのことであった。そして、彼が1772年にサンクトペテルブルクで上演されたオペラ「アンティゴナ Antigona」は、疑いなく彼の作品の中で最も先見的で、しばしばグルックと関連づけられるが実際には当時のほかの数名の作曲家たちにも考えられていた有名な改革的観念に彼が最も近づいた作品である。 パルマのブルボン公の宮廷で、トラエッタは突然フランスの新しい空気の中に放り込まれた。1759年にパルマで彼は多くの重要な協力者を得た。運の良いことにその中にはオペラの担当者として、パリで教育を受けた非常に教養の深いフランス人ギヨーム・デュ・ティロがいた。彼はフェリペ王子の第一の大臣としての数多くの責務の中でも、特に完璧な文化的責務をもつ人物であった。大規模で劇的な演出の点から見た全体的な様式の影響と、独特の音楽的な借用の点から判断すると、トラエッタはラモーのオペラのコピーや報告を手に入れるためにパルマに出入りしていた。その影響で、トラエッタは自分の作品にいくたりかの構成要素(特に、メロディおよびオーケストラの利用という形での劇的特色)を付け加えている。その結果、イタリア・フランスおよびドイツの要素が合わさった作風が生まれ、その中には数年後により北方で流行するシュトゥルム・ウント・ドラング運動も予見されている。 このフランス贔屓が最初に結実したのが、トラエッタが1759年に製作したオペラ「イッポリートとアリシア Ippolito ed Aricia」である。この作品は、ラモーが1733年に製作した悲劇叙事詩の大作「イポリートとアリシー Hippolyte et Aricie」によるところの大きい作品であるが、トラエッタの作品はラモーの作品の単なる翻訳に留まらない。パルマでのトラエッタの台本作家であったフルゴーニが、ラシーヌ作品をもとにしたキノーによるフランス版の台本を、究極的には古代ギリシアのエウリピデスによる「ヒッポリュトス」を原点とする方向へ作りかえた。フルゴーニはいくつかの重要なフランス的要素は残していた。慣習的な三幕構成に対して五幕で構成されていること、フランス的な光景・演出(特にそれぞれの幕の最後のダンスやディベルティスマン)が時折使用されること、そしてハッセやグラウン、ヨンメッリらに比べてより精巧な合唱の使用などである。
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