ハイゼンベルクとの研究、病、孤独
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:18 UTC 版)
「エットーレ・マヨラナ」の記事における「ハイゼンベルクとの研究、病、孤独」の解説
「フェルミの働きによりマヨラナは1933年初めにNational Research Councilからの助成金によりイタリアを去り、ドイツのライプニッツでヴェルナー・ハイゼンベルクに出会う。その後マヨラナがハイゼンベルクに送った手紙では、彼を科学における同僚だけではなく温和な個人的友人とみなしていると書いている」。マヨラナがドイツに到着したのと時を同じくしてナチスが権力を握った。原子核の理論に取り組んだ(その結果は1933年ドイツ語で発表された)。これは交換力の扱いにおいて、ハイゼンベルクの原子核の理論のさらなる発展を意味する。 コペンハーゲンにも行き、そこでニールス・ボーアやハイゼンベルクの友人やメンターとともに研究を行った。 「1933年の秋、マヨラナはドイツで急性胃炎を発症し明らかに神経を衰弱するなど健康を害したためローマに戻った。食事療法をすると、隔離されている感じが強まり家族との付き合いが厳しくなった。以前は温かな関係を持っていた母に、夏休みに海に行くことが恒例になっていたがこれについて行かないとドイツから手紙を送った。研究所に行く頻度が減るとすぐに、家を出ることがほとんどなくなった。有望な若い物理学者は隠者になってしまった。4年近くの間友人から身を隠し研究を発表することはなかった」。 論文をほとんど発表しなかったこの期間に地球物理学、電気工学、数学、相対性理論に関する小さな研究を多く書いた。ピサのDomus Galileianaに保存されているこれらの未発表の論文は最近Erasmo RecamiとSalvatore Espositoにより編集された。 1937年、「理論物理学の分野で達成された並外れた専門性の高い名声」により規則とは関係なく試験なしでナポリ大学で理論物理学の正教授となった。 1937年に発表した最後の論文はイタリア語で書かれ、電子と陽電子の対称理論について綿密に解説した。 1937年、フェルミオンとして知られる粒子のクラスにはそれ自身が反粒子となる粒子があるべきだと予測した。これがいわゆるマヨラナ粒子である。 マヨラナ方程式(英語版)を解くと現在マヨラナ粒子として知られるそれ自身が反粒子となる粒子が得られる。2012年4月、マヨラナが予測したことのいくつかがハイブリッド半導体-超伝導体ワイヤデバイスに関する実験で確認された可能性がある。これらの実験はもしかすると量子力学のより良い理解につながる可能性があり、量子コンピュータ構築の助けになるかもしれない。また、重力の影響の推論以外には検出できない宇宙の「質量矛盾」の少なくとも一部はマヨラナ粒子で構成されているかもしれないという推測もある。
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