ドーチェスターとその沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 02:05 UTC 版)
「4人のチャプレン」の記事における「ドーチェスターとその沈没」の解説
詳細は「ドーチェスター (軍隊輸送船)(英語版)」を参照 「ドーチェスター」(Dorchester)は、元は民間の定期船だった。排水量は5,649トン、全長は368フィート(112メートル)、全幅は52フィート(16メートル)であり、煙突を1つ持っていた。1926年にニューポート・ニューズ造船所で建造された。発注者はマーチャンツ・アンド・マイナーズ・ライン社で、ボルチモアからフロリダまでを運航する貨客船として使用された。同航路のために建造された4隻の定期船のうち、3番目の船だった。 「ドーチェスター」は第二次世界大戦中にアメリカ陸軍に徴用され、戦時海運庁(英語版)の軍隊輸送船として使用された。軍隊輸送船として使用するに当たり、救命ボートや救命いかだの追加、武装(前部に3インチ砲1門、後部に4インチ砲1門、および20ミリ機関砲4門)の増設と、操舵室の大きな窓をスリット状にして保護するなどの改造が行われた。民間船としては乗客314人・乗員90人を収容できるように設計されていたが、軍隊輸送船としては900人強の軍人と乗員を収容することができた。 「ドーチェスター」は1943年1月23日、4人のチャプレンを含む約900人を乗せて、他の2隻の軍隊輸送船ともにニューヨークを出港し、グリーンランドへ向かった。沿岸警備隊のカッター「タンパ」「エスカナーバ」「コマンチェ」の3隻が船団の護衛についていた。ほとんどの軍人は、船の最終目的地を知らされていなかった。 「ドーチェスター」の船長のハンス・J・ダニエルセンは、沿岸警備隊よりソナーにより潜水艦を発見したとの情報を受けた。ドイツ軍のUボートはシーレーンを監視しており、戦時中にも船を攻撃して沈めたことがあった。そのためダニエルセン船長は、当初より乗員や軍人に対して、寝るときも服を着て、救命胴衣を着用することを命じ、厳戒態勢を敷いていた。しかし、兵士の多くは、機関から発せられる熱による暑さや、救命胴衣の着心地の悪さを理由に、その指示を無視していた。 1943年2月3日未明、午前12時55分に、北大西洋のニューファンドランド沖を航行中に、ドイツ軍の潜水艦U-223(英語版)が発射した魚雷が「ドーチェスター」に命中した。魚雷により、多くの乗船者が甲板下に閉じ込められた。電気系統が破壊されて船内は真っ暗になり、乗船者たちはパニックに陥った。チャプレンたちは乗船者を落ち着かせ、秩序ある避難を促し、負傷者を安全な場所に誘導した。各自に予備の救命胴衣が配布されたが、全員に行き渡る前になくなってしまった。チャプレンたちは自分の救命胴衣を外して他の人に渡した。そして、できるだけ多くの人を救命ボートに乗せた後、自分たちは腕を組んで祈りを捧げ、賛美歌を歌いながら、船とともに沈んでいったのである。生存者のグランディ・クラークは、次のように回想している。 私は船から泳いで遠ざかりながら後ろを振り返ってみました。炎が全てを明るく照らしていました。船首が高く上がり、船は沈んでゆきました。私が最後に見たのは、4人のチャプレンが船上で皆の無事を祈っている姿でした。彼らはできる限りの全てのことを成し遂げました。私は彼らを再び見ることはありませんでした。彼らは自分の救命胴衣を持っておらず、助かる見込みはありませんでした。 —Grady Clark, survivor いくつかの報告によると、生存者は、チャプレンの祈りの中に様々な言語が混じっているのを聞いていた。ユダヤ教の祈りはヘブライ語で、カトリックの祈りはラテン語で行われていた。 船に乗っていた904人のうち、救助されたのは230人だけだった。救命胴衣では低体温症を防ぐことができず、ほとんどの人が水の中で死亡した。水温は摂氏1度、気温は2度だった。救助船が到着したときには、救命胴衣を身に着けた何百もの死体が海面に浮かんでいたという。
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