ドーソンの『モンゴル帝国史』
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「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「ドーソンの『モンゴル帝国史』」の解説
モンゴルのホラズム・シャー朝征服については、19世紀前半にC.M.ドーソンが著述した『モンゴル帝国史』が古典的な研究として世界中で重視されている。一方、近年では『モンゴル帝国史』が西欧列強がアジアを植民地支配する時代に編纂されたことに由来する、「遅れた野蛮なアジア」の代表として必要以上にモンゴル帝国を貶めるような叙述がなされていることが指摘されている。 例えば、モンゴルが派遣した使者を殺害したことで「城民が皆殺しにされた」とされるスグナクについて、ドーソンは「激高した民衆が使者を虐殺した」とし、その報復としての虐殺によってスグナクは「人口の絶滅した地区」になったとする。しかし、一次史料たる『世界征服者史』には使者を殺害したのは「悪漢(sharīrān)・破落戸(runūd)・騒動屋(aubāsh)」という一般城民とは言い難い集団であったと明記されている。また、スグナク陥落後にスグナクの統治を委ねられたハサン・ハッジーの息子は隠れていた人々を集めたと記されていることから、モンゴル軍が本当に城民を皆殺しにしたとは考えられず、皆殺しにされたのは主戦派であった「悪漢・破落戸ら」のみではないかとも指摘されている。 また、オトラルの陥落に関する章において、ドーソンは「オトラルの城砦は徹底的に破壊され、モンゴル軍は殺戮を免れた住民をブハラの正面へ引き連れた」と述べる。一方、『世界征服者史』はオトラルの破壊について「城塞(ḥiṣār)と城壁(bāra)を町(kūy)の通り(rah)と同じにした」と述べており、城市そのものが破壊されたのではなく、城壁が破壊されてオープン・シティになったことを伝えている。住民が城外に出されたのも課税のための人口調査の一環であり、「城壁の撤廃」と「人口調査のため城民を城外に出す」ことを「城市の破壊」と「城民の虐殺」に安易に結びつける叙述は『モンゴル帝国史』の全般に渡ってみられる。 このように、ドーソンの叙述には原典史料の記述以上に「モンゴルの破壊と虐殺」を強調する曲筆が見られるため、ドーソンの著作を利用する研究者は記述内容をそのまま鵜呑みにしてはならず、必ず原典史料に当たって本来の記述がどのようなものか確認する必要があると指摘されている。
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