ドーソンの『モンゴル帝国史』とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ドーソンの『モンゴル帝国史』の意味・解説 

ドーソンの『モンゴル帝国史』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)

モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「ドーソンの『モンゴル帝国史』」の解説

モンゴルのホラズム・シャー朝征服については、19世紀前半C.M.ドーソン著述した『モンゴル帝国史』が古典的な研究として世界中で重視されている。一方近年では『モンゴル帝国史』が西欧列強アジア植民地支配する時代編纂されたことに由来する、「遅れた野蛮なアジア」の代表として必要以上にモンゴル帝国貶めるような叙述なされていることが指摘されている。 例えば、モンゴル派遣した使者殺害したことで「城民が皆殺しにされた」とされるスグナクについて、ドーソンは「激高した民衆使者虐殺した」とし、その報復としての虐殺によってスグナクは「人口絶滅した地区になったとする。しかし、一次史料たる『世界征服者史』には使者殺害したのは「悪漢sharīrān)・破落戸runūd)・騒動屋(aubāsh)」という一般城民とは言い難い集団であった明記されている。また、スグナク陥落後にスグナク統治委ねられたハサン・ハッジーの息子隠れていた人々集めた記されていることから、モンゴル軍本当に城民を皆殺しにしたとは考えられず、皆殺しにされたのは主戦であった悪漢破落戸ら」のみではないかとも指摘されている。 また、オトラル陥落に関する章において、ドーソンは「オトラル城砦徹底的に破壊されモンゴル軍殺戮免れた住民ブハラ正面引き連れた」と述べる。一方、『世界征服者史』はオトラル破壊について「城塞(ḥiṣār)と城壁(bāra)を町(y)の通りrah)と同じにした」と述べており、城市そのもの破壊されたのではなく城壁破壊されオープン・シティになったことを伝えている。住民城外出されたのも課税のための人口調査一環であり、「城壁撤廃」と「人口調査のため城民を城外に出す」ことを「城市破壊」と「城民の虐殺」に安易に結びつける叙述は『モンゴル帝国史』の全般に渡ってみられるこのようにドーソン叙述には原典史料記述以上にモンゴル破壊虐殺」を強調する曲筆見られるため、ドーソン著作利用する研究者記述内容そのまま鵜呑みにしてはならず、必ず原典史料当たって本来の記述どのようなものか確認する必要がある指摘されている。

※この「ドーソンの『モンゴル帝国史』」の解説は、「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の解説の一部です。
「ドーソンの『モンゴル帝国史』」を含む「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事については、「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ドーソンの『モンゴル帝国史』」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドーソンの『モンゴル帝国史』」の関連用語

ドーソンの『モンゴル帝国史』のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドーソンの『モンゴル帝国史』のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのモンゴルのホラズム・シャー朝征服 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS