トンネル火災事故
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「モンブラントンネル」の記事における「トンネル火災事故」の解説
1999年3月24日、小麦粉とマーガリンを積んでフランス側からイタリア側へ向かっていたベルギーの貨物トラック(ボルボ製)が燃料漏れにより爆発、フランス側が煙を感知していたにも関わらず、直ちに封鎖しなかったことから、10台の普通車両と18台のトラックがトンネル内に進入、結果として死者39名、負傷者27名という大惨事となってしまった。 主な原因として、トンネルの中間地点を境にしてフランス側とイタリア側で別の管理会社が管理していたため、換気系統が別々となっていたこと、火災対策が不十分と指摘されたにも拘らずフランス政府が無視したことが挙げられる。この火災で、当初シャモニー側から消防車2台が火災現場へ向かったが、既に火災で配線が焼け熔けており、暗闇の状態となっていたことと、車が車線を塞いでいたことから到着が遅れてしまい、煙に巻き込まれることとなってしまった(この15名の消防士は救助されるが、そのうちの司令官1名が死亡している)。その後、フランス、イタリアのほか、スイスからも合計で約100名の消防士が動員されたものの、換気装置が有毒ガスを排気しきれずに熱と煙が立ち込めることとなり、消防士が現場に到着できたのは火災から約3日後の3月26日、完全に鎮火したのは、火災発生から約56時間後のことであった。 なお、死者の多くは避難時にシェルターへ向かう途中に死亡しており、爆発車両の積荷がマーガリンと小麦粉であったことから、事故現場は約1000度もの高温の状態に達していた。故に、遺体も炭化したものが多かった。 この事故に巻き込まれ生還したのは12名である。それには火事を生き延びたオートバイの警備員、パトリック・デヴォアソーが救助に貢献している。一方、イタリア側から派遣された警備員ピエルルーチョ・ティナッツィもBMW K75に乗り、被災者を救出しようとしていた。だがティナッツィは救助しようとしていた意識不明の被害者とともに防火扉の中で亡くなっているのが発見された。被害者が巨体で、K75に乗せられなかったためとされている。彼は猛烈な炎の熱さの中、1時間以上イタリア側と無線で連絡を取り合っていた。事故後、イタリア側によって同国側入口にモニュメントが建立されている。 この火災事故により、トンネル内の壁は焼け焦げ、コンクリートが砂状になったり、鉄が熔解するなどの深刻なダメージを蒙り、閉鎖を余儀なくされた。その後、壁の補修や、換気システムと温度計の追加、退避トンネルの建設などが行われ、約3年後の2002年3月9日に再開通した。
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トンネル火災事故
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2016年(平成28年)3月17日午前7時半頃、トンネル内で衝突事故が原因で火災が発生、車両5台が炎上し2人が死亡、71人が負傷した。この事故で東広島市消防局は7:26に通報を受け初めに消防車2台、救急車2台が出動。災害規模が大きいと判断され7:46第2出動でポンプ車2台(西分署から八本松2、東広島消防署から東広島2)、救急車2台(東広島消防署から東広島救急2、西分署から八本松救急2)を出動させた。7:57には第3出動で救急車6台(南分署から黒瀬救急1,黒瀬救急2、北分署から豊栄救急1、東分署から河内救急1、安芸津分署から安芸津救急1、竹原消防署から竹原救急1)を出動させ、75名が活動した。8:07にはドクターヘリ要請、5名が活動。8:43にはDMATが現場へ到着し、51名が活動。他にも広島市消防局からヘリ1機、消防車11台、救急車1台、47名が活動。尾道市消防局から救急車1台、マイクロバス1台、6名が活動。呉市消防局からマイクロバス1台、3名が活動。広島県防災航空隊から防災ヘリ1機、6名が活動。三原市消防本部から消防車2台、救急車2台、11名が活動し、計ヘリ3機、消防車両40台(うち救急車13台)、マイクロバス2台、総員204名が活動した。。
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