トンネル窯による日本初の瓦焼成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 06:02 UTC 版)
「北陸窯業」の記事における「トンネル窯による日本初の瓦焼成」の解説
会社が発足して間もなく昭和20年8月の終戦を迎えたが、この時期は長年に亘る戦争のため生活物資は食糧を初めあらゆる物が不足し、国民生活は困窮を極めた時代だった。北陸窯業もこの時期、生産物資等の調達もままならず、生産再開よりも止む無く山地を開墾して農園(安養寺地籍)を作り粗菜の栽培や、越前海岸で定置網漁業等の副業を行い従業員の食糧不足を補っていた悲惨な時代であった。間もなく世の中は落ち着き戦争無い有難さを実感したが、産業の復興はおいそれとは進まず、多くの労働者が職を求めて北陸窯業に集まり、中には窯業の専門家や技術力のある人材がまじっていた。北陸窯業は、これらの豊富な知識、技術力、労働資源を活かし企業の再開、事業の展開を迫られていたが、熟慮の結果、豊かの埋蔵されている陶土原料活用による瓦製造による再出発が決定した。当時の都市部は、戦災により焦土化となった住宅復興が急務とされており、建築屋根材としての瓦の需要が高まっていた。県下、瓦産地の中では、丹生郡一帯は生産量の大きい地域であったが、その生産規模は零細で、しかも冬季間は生産を中止するという家内工業の域を脱しないところがほとんどであった。創業者は、この瓦製造事業を何とか近代的なものにしたいと熱望し、大量生産可能な工場レイアウトに取り組んだ。それは、工場敷地が織田町の中央を流れる天王川支流の形成した河岸段丘崖の斜面を利用した階段状になった地の利を活かして工程の流れに合わせて成形の合理化を図った。又、焼成面では、昭和21年11月当時商務省陶器試験場長設計による長さ50mの低番度耐火煉瓦用トンネルキルンを設置し、翌3月より年度瓦焼成用に転用、色瓦焼成に成功した。瓦をトンネルキルン焼成したのは、日本で初めてであり、日本最大の瓦産地三河地区に先駆けること4年前であった。そして当時の生産量月産24万枚は、一企業としては日本1位であった。
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