トンネル開通前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 04:38 UTC 版)
敦賀と今庄の間には鉢伏山(海抜 762 m)がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜 628 m)は、古くから北陸道の隘路であった。 北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀駅 - 今庄駅間は、木ノ芽峠を避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅を経由する山中峠ルートを採っていた。だがこの区間は、海岸の山麓を縫いながら4か所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3か所の駅、3か所の信号場、12か所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。眺望こそ優れた区間であったが、速度や輸送力、列車本数(急勾配の単線区間であるゆえ、列車本数に限りがあった)の面で、木ノ本 - 敦賀間の旧線区間と同じく、重要幹線である北陸本線にとってのボトルネック(制限)となっていた。また、勾配の厳しさのみならず、地盤の脆弱さによるがけ崩れ、冬期には雪国特有の雪害にも悩まされていた。 補助機関車としてD51形蒸気機関車をつけての重連では 700 t 輸送が限界であったため、1955年(昭和30年)より(試作機的な)電気式ディーゼル機関車DD50形、当時最新鋭だった電気式ディーゼル機関車DF50形などが配属され、機関車三重連により 1000 t 輸送を始めた。しかしそれでも貨物量の増加には対処しきれず、1956年(昭和31年)7月には金沢鉄道管理局管内での抑制列車は36本を数え、駅頭滞貨は 3万8000 t(対前年比 178 %)にも及んだ[要出典]。
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