チェリーバレー虐殺、そして捕虜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 14:59 UTC 版)
「ウィリアム・ステイシー」の記事における「チェリーバレー虐殺、そして捕虜」の解説
ステイシーは、1777年と1778年に、イカボッド・オールデン大佐のマサチューセッツ第7連隊で、中佐として仕えた。この連隊はニューヨーク州チェリーバレーに送られ、ロイヤリストとインディアンから地元民を守る任務を与えられた。ロイヤリストはイギリス軍のロイヤリスト民兵隊であるバトラーズ・レンジャーズとして組織され、ジョン・バトラー大佐と、その息子であるウォルター・バトラー大尉が率いていた。ロイヤリストはインディアンと共に作戦を展開しており、そのインディアンの中にはモホーク族の指導者であるジョセフ・ブラント、インディアンの名でタイエンダネギーの指揮下にある者達も含まれていた。 ステイシーは、1778年10月にチェリーバレーでオールデン大佐と共に従軍している間に、マサチューセッツ第4連隊に転籍となったが、オールデン大佐のところに留まっていた。この期間オールデン大佐連隊の補給係将校であるウィリアム・マッケンドリー中尉が日誌を付けており、チェリーバレーで起こった戦闘の直接の証言となった。ステイシー中佐に関する簡単な記述の1つが、日誌巻頭の1778年10月6日のものであり、「ステイシー中佐とバラード大尉が馬を持っており、競走した。ステイシー中佐が賭けに勝った」となっていた。しかし1か月後に、チェリーバレーでは戦争の惨禍を経験することになった。 1778年11月11日、ロイヤリストとイギリス正規軍の兵士、モホーク族とセネカ族インディアンの混成部隊が、ウェルター・バトラーの全体指揮でチェリーバレーを下った。オールデン大佐が敵軍接近の警告を受けたが、その警告を無視してしまった。オールデンと、ステイシーを含むその参謀は、砦から400ヤード (370 m) ほど離れた1軒家に駐屯していた。マッケンドリーはその日誌でこの攻撃のことを、「直ぐにバトラー大佐とブラント大尉の指揮下に、イロコイ連邦5部族からインディアン442名と、ロイヤリスト200名が来て、本部を攻撃し、オールデン大佐を殺し、ステイシー中佐を捕虜にし、オールデン砦を攻撃したが、3時間後になっても砦を落とせず、撤退した」と記していた。マッケンドリーはこの虐殺での犠牲者を、オールデン大佐、他に13名の兵士、30名の文民と同定していた。この事件はチェリーバレー虐殺と呼ばれるようになり、独立戦争の中でも最大級に恐ろしいフロンティアでの虐殺と言われるようになった。マッケンドリーはその3か月後、1779年2月12日の記述で、あるインディアンから捕虜になっているウィリアム・ステイシーに関する報告を受け取ったと記している。ステイシーは明らかに仲間の軍人を安心させようと気を配っており、「ステイシー中佐について知り得たことはうまくやっているということであり、精神状態も良好だということだった。これは戦争の運に過ぎないので気にしないようにと彼に伝えた」ということだった。 幾つかの証言では、チェリーバレー虐殺の間あるいはその後で、ステイシー中佐は裸にされ、柱に縛り付けられ、拷問をうけて殺されるところだったが、ジョセフ・ブラントに救われた。ステイシーはフリーメイソンであり、ジョセフ・ブラントは教育を受けたインディアンであり、彼もフリーメイソンになっていた。ステイシーは1人のフリーメイソンとしてもう一人のフリーメイソンにアピールし、それで命が救われたという報告がある。ステイシーはその後、ニューヨーク州のロイヤリスト本拠地であるナイアガラ砦に連れて行かれ、1779年の夏の間、バトラー大佐の捕虜となっていた。ナイアガラ砦では、ジョセフ・ブラントの姉であるモリー・ブラントがステイシーに対して敵対的であり、バトラー大佐にステイシーの身柄をインディアンにもどすよう望んだ。モリー・ブラントは夢見のことを言っており、インディアンがステイシーの頭を使ってインディアンのフットボールを行っていたと言っていた。バトラー大佐はラム酒でモリー・ブラントを宥め、その捕虜を守った。その後1779年から1782年の半ばまで、ステイシー中佐はモントリオールに近いシャンブリー砦で捕虜のまま拘留されていた。 ステイシー中佐は戦争捕虜として、ジョージ・ワシントン将軍ほか大陸軍指導者の高レベルの対話と行動の対象になった。1780年4月、独立戦争の間にアメリカ側で戦ったフランス貴族のラファイエット将軍が手ずからウィリアム・ヒース将軍の手紙をワシントン将軍に持ってきた。その手紙にはロイヤリストとイギリス軍のステイシー中佐に関する戦略が述べられていた。その戦略は、ステイシー中佐を戦争捕虜として保持しておき、バトラー大佐やもう一人のロイヤリスト高官であるジョン・ジョンソン卿が大陸軍の捕虜になった場合に、捕虜交換の材料にステイシー中佐を使うというものだった。1780年9月、ワシントン将軍はステイシー中佐のために捕虜交換を画策しようとしたが、うまく行かなかった。1781年11月1日、マサチューセッツ州議会がジョン・ハンコック州知事に、ヒース将軍を奨励してステイシー中佐のために捕虜交換を求めさせるよう督促する決議案を通した。 それでもステイシー中佐は終戦近くまで釈放されることはなく、やっと釈放されたのは1782年8月になっていた。ワシントン将軍は戦後、ステイシー中佐に対する個人的な記念品として金の嗅ぎ煙草入れを贈った。ステイシー中佐の甥であるナサニエル・ステイシーは、子供のときの最初の記憶は、戦後にウィリアム・ステイシー中佐がニューセイラムに戻って来たことだったと、記している。
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