タフツ大学学長
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「ジョン・マイヤー (生理学者)」の記事における「タフツ大学学長」の解説
1976年、マイヤーはタフツ大学(Tufts University)の第10代学長に就任した。1976年7月1日に行われた学長就任式の出席者は、のちにマイヤーとタフツ大学で一緒に働くことになるハーヴァード大学の友人や同僚たちが書いているように、「その日を境に、タフツ大学は優れた学部教育過程と非常に優れた大学院を持ち、活気が感じられない矮小な大学ではなく、国際的な評判を持つ第一級の大学になりつつある」ことを実感したという。 マイヤーがタフツ大学で過ごした期間は、伝説になるほど有名なものとなった。慢性的な財政赤字に苛まれ、寄付金は無いも同然であったこの大学で、マイヤーは1億ドル、さらに続いて2億ドルの資金調達活動を開始した。終身在職権の付与に寛大であった教授陣を考慮する形で、マイヤーは昇進と終身在職権の基準として、授業内容と研究の双方で優れた業績を挙げるべきである、と主張し、タフツ大学在学中に大学で発生した終身在職権のすべての事例の書類に自ら目を通した。 マイヤーがタフツ大学に着任したのは、大学への志願者数が長期にわたって減少を続けており、入試において志願者を慎重に選ぶ余裕が無くなっていた時期であった(入学競争が激しい大学ではなかった)。マイヤーがタフツ大学の学長に就任したという知らせが広まるにつれ、同大学への応募者は増えていった。マイヤーがタフツ大学に着任して3年目、入学事務局が予測していた数よりも400人多い学生たちがタフツ大学の入学許可を受け、学生寮の部屋数が不足する事態となった。マイヤーは、マサチューセッツ州ケンブリッジの中心付近にある広場、ハーヴァード・スクウェア(Harvard Square)にあるホテルを4年間借り、接続バスを運行させ、学生と学生の親に対して「タフツ大学での教育とハーヴァード・スクウェアでの生活は、この上なく素晴らしいものです」と説明することで解決策を提示した。「タフツ大学への入学競争が激化するにつれ、学生の質も高まっていった。新入生のうち、上位10%に入る割合は、1976年の時点で38%だったのが、1992年には74%にまで上昇した」という。 2016年の時点では、タフツ大学に入学した新入生の91%が、高校での学級の上位10%を占めていた。2020年の時点で、タフツ大学は20223人の応募者のうち、14.3%にあたる2889人を受け入れた。 マイヤーは、最高水準の学部教育の維持を主張した一方で、タフツ大学を、とりわけ基礎科学分野における大学院教育過程や研究部門を備えた大規模な研究大学へと一変させた。学長に就任していたころのマイヤーは、サックラー生物医科学大学院(Sackler School of Graduate Biomedical Sciences)、タフツ環境管理本部(The Tufts Center for Environmental Management)、フリードマン栄養科学・政策学部(Friedman School of Nutrition Science and Policy)を創設するとともに、フランスのタロワール(Talloires)に、11世紀のベネディクト派の男子修道会の小修道院の建物を再利用する形でタフツ欧州研究本部(The Tufts European Studies Center)を設置し、タフツ大学の国際的な存在感を高めることに成功した。マイヤーはまた、マサチューセッツ州グラフトン(Grafton, Massachusetts)にある別のキャンパスにおける獣医学部の創設を監督し、フレッチャー法律外交大学院(Fletcher School of Law and Diplomacy)、タフツ医科大学(Tufts University School of Medicine)も設立し、大学の学部同士での連携も新たに構築した。 1993年にマイヤーが亡くなったとき、タフツ大学の教員であり、学長でもあるソル・ギトルマン(Sol Gittleman)は、マイヤーの学長時代は歴史的な変化の時代であった、と評価している。 マイヤーがタフツ大学に着任したころは、大学の不安定さが高まっていた時期であった。教授陣は1970年代に起こった出来事に動揺しており、我々は衰退し、脆弱で、事態を好転させる自信を失いかけていた。我々自身が積極的になるための資源も意志力も欠落したまま、ある種の野暮で時代遅れの凡庸さに陥っていくさまを見ていて、無力感を覚えていた。1973年の独習文書『A Changing University in a Changing Time』にある「次の5年は厳しいものとなり、その次の10年はさらに悪化するであろう」がすべてを物語っていた。タフツ大学にいた者たちの誰もが、この気持ちを同じくしていた。そこに現れたのが、ジョン・マイヤーであった・・・ジョン・マイヤーは、アメリカの大学の学長の中でも次第に希少になりつつある流儀を象徴する存在だ。彼こそは、本物の学術指導者であり、知力を要する仕事を終始一貫して担当する。彼はたった1つの大学の学長であり、彼のような人物は他にはいない。
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