ソ連・ツポレフ設計局時代(OKB Tupolyeva)
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1922年10月22日にアンドレーイ・トゥーポレフによりツポレフ設計局が創設された。ソ連の設計局では航空学研究と航空機設計のみを行い、製造は他で行う。1920年代に全金属飛行機に関する研究に着手した。 第2次世界大戦では金属製の機体にエンジンを左右に搭載したTu-2がソ連の最高級の前線爆撃機として活躍した。1942年に製造が開始され、数度の改良を重ねつつ多数生産された。戦時中に金属が不足するにつれて、後部胴体を木製に変えたものも誕生した。 ソ連にとって初の大陸間戦略爆撃機の基盤となるTu-4を開発、1947年に初飛行し、多数量産された。これは1945年、日本攻撃の帰途、ソ連に着陸した3機のアメリカのボーイング社製B-29を基本的にほぼそのまま製造したものであった。 その後、Tu-16の開発に引き継がれた。Tu-16は後退翼により亜音速性能を実現したジェット爆撃機である。 劣悪だったターボジェット機の燃料効率改良を図るため、新たにターボプロップエンジンを採用したTu-20(のちのTu-95)爆撃機を設計。同機種はボーイングのB-52に匹敵する大陸間飛行が可能かつジェット機並みの性能を備えたソ連製大陸間爆撃機の決定版となり、偵察や対潜水艦攻撃を目的としたTu-142をはじめ派生型が多く同機種を元に生み出されていった。Tu-16は世界で二番目のジェット旅客機Tu-104に発展する。Tu-104は、イギリス製旅客機デハビランド・コメットが墜落事故を起こし、運用が中止されている間、運用されていた唯一のジェット旅客機であった。イギリスのコメットが金属疲労により連続して空中分解する大事故が多発したのに対し、Tu-104はもとが爆撃機であっただけあり極めて安全な運行を続けた。Tu-95は、ターボプロップ機で史上最速を記録したTu-114中長距離旅客機を生み出す礎を築いた。 1960年代には、Tu-22超音速爆撃機を生産した。"K" 部門は、設計局内で、Tu-139やTu-143偵察機といった無人航空機などを設計する任務を負って組織された。 また1960年代からは、アンドレーイ・トゥーポレフの息子、アレクセーイ・トゥーポレフ(1925年-2001年)も主導権を握るようになる。彼は、世界初の超音速旅客機Tu-144や、有名な旅客機Tu-154、中距離戦略爆撃機Tu-22Mの開発などに関与した。これらすべての開発により、ソ連は、戦略的軍用・民用とも西側諸国と同等の飛行ができるようになった。 1970年代、ツポレフは、Tu-22M爆撃機の性能改善に労力を費やした。これら爆撃機が大多数となってきた当時、軍縮を図る目的でSALT I条約とSALT II条約が作られた。また、Tu-154も改良され、より効率的な性能となったTu-154Mを完成させた。 1980年代、Tu-160超音速戦略爆撃機が開発された。可変後退翼が特徴で、当時の西側機(ロックウェルB-1)よりもいくつかの点で優れていた。しかしながら、ソ連崩壊によりその開発が遅れる結果となった。
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