ジェノシデール
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詳細は「ジェノシデール」を参照 ジェノシデールとは、ルワンダにおいてはルワンダ虐殺に参加した者を指す言葉である。このジェノシデールの人数は研究者によって大きく異なり、約1万人とする説から約300万人とする説まで存在しているが、多くの場合でこれらの数字は憶測に基づいたものであった。2006年に報告された実証的研究によれば、1件以上の殺人を行ったジェノシデールの数は、17万5000から21万人であると推定されており、これは当時のフツ成人の7-8%、フツ成人男性の14-17%に相当する値である。2000年の時点では、拘留され被告人となっているジェノシデールは11万人であったが、2006年にはガチャチャ裁判の進行などにより約8万人となった。ジェノシデールの大多数は男性であり、女性は全体の3%程度である。国家レベルから地域レベルに至るまで、ジェノシデールは社会のあらゆる階層の人々から構成されており、このジェノシデールを煽動・指揮していたのは政治、軍事、あるいは行政の有力者らであった。ジェノシデールの大半は普通のルワンダ男性であり、教育、職業、年齢、子供の数など、何ら特異性のない一般的な社会集団から構成されていた。この一般的なジェノシデールは比較的教育水準が低い若者が多かったのに対し、煽動や指揮を行っていた者たちは比較的教育水準が高く、社会的地位の高い者が多かったことが報告されている。
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ジェノシデール
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1993年になってルワンダ愛国戦線(RPF)が再びルワンダ政府に敵対的な態度を取り出すと、それに伴ってインテラハムウェ内部でも親RPF派と反RPF派に派閥が分かれ始めた。 前述の通り、1994年4月以前のインテラハムウェの主たる役割は、党員拡大のための活動だったが、彼らはそのために暴力や脅迫を用いることを躊躇しなかった。インテラハムウェに限らず他党の青年部も同様のことを行ったが、暴力や脅迫によって無理やり自党に加入させる、対立する政党の支持者を襲撃・暴行を加えるといった事件が頻発した。このような暴力を伴った政党活動のことをルワンダ人は皮肉交じりに「クボホザ」(kubohoza)と呼んだ。「クボホザ」とは、ルワンダ語で「解放する」という意味である。これによって、地方の政党指導者の発言力が増した。 ジェノサイド発生の初期段階までは、インテラハムウェとその他の民兵グループ(インプザムガンビやインクバ、アバコンボジなど)とは協調したり対立したりと行動はまちまちだったが、1994年4月12日以降は全ての民兵グループがツチの殺戮に乗り出したので、その違いはほとんどなくなったと言ってよい。 ルワンダ大虐殺から10年以上経っても、ジェノシデールの多くはインテラハムウェだったと書かれたり解説されることが絶えないが、これは誤りであることが比較的大規模なサンプリング調査により実証されている。同様に、インテラハムウェとジェノシデールは混同されて用いられているとICTRの判決文でも認定されている。また、ジェノシデールの約90%は普通の農民であったことがわかっている。このような間違いが起こった理由は、ルワンダでは虐殺事件の最中から、インテラハムウェをジェノシデールと同一の意味で乱用して使っていたため混同されてしまったからである。ただし、地方の状況を変えてツチの殺戮へ向かうように工作したり、襲撃の先頭を切るなど、虐殺で重要な位置を占めていたこともまた事実である。 インテラハムウェは、RPFに押し出されて、その後コンゴ民主共和国へ逃亡した。また、旧ルワンダ政府軍(フツ軍)とほぼ全ての作戦行動を共同で行っているため、両組織の区分も曖昧で、ルワンダ解放軍(ALIR)と総称されている。
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