シェフの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 06:51 UTC 版)
「クィーンストン・ハイツの戦い」の記事における「シェフの攻撃」の解説
午前10時まで、アメリカ軍は渡河する船に撃ちかけられるブルーマンズポイントの長射程24ポンド砲に苦しめられた。しかし、アメリカ軍は数百名の新たな部隊と6ポンド砲を渡河させることができた。この部隊は凸角堡の18ポンド砲を再度使えるようにし、クィーンストンの村落に向かって砲撃を始めたが、川からは離れた一部の地区にしか撃てなかった。クリスティ大佐はカナダ側に攻撃を掛けていたが、増援隊や塹壕を掘る道具を集めるために一旦引いた。正午、ヴァン・レンセリア将軍が渡河した。ヴァン・レンセリア将軍とクリスティはクィーンストン・ハイツの防御を固めるよう命令した後、また川を渡ってアメリカ側に戻った。 ウィンフィールド・スコット大佐(後にアメリカ軍の歴史の中でも最も尊敬される将軍の一人となった)がクィーンストン・ハイツの正規兵の指揮を執り、ウィリアム・ワズワース准将が全軍指揮の権利を譲って民兵隊の指揮を執った。完全な形の部隊は少なく、組織立っていない部隊の集まりであり、士官がいない部隊もあった。士官が渡河したのに部下の兵士が隋いて来ない場合もあった。ヴァン・レンセリア将軍の部隊の1,000名足らずがナイアガラ川を渡ったが、ブロックの死を知らず、イギリス軍の大砲が静かになったにも拘わらず民兵隊は残っている船で川を渡ることを拒否した。 一方、ジョージ砦からのイギリス軍増援が到着し始めた。6ポンド砲2門を持ったホルクロフト大尉の砲兵隊が、デレンジー大尉の中隊に支援されてクィーンストンの村落に入った。民兵大尉のアーチボルド・ハミルトンが自分の家の庭に大砲を据える場所を誂えた。この部隊は午後1時に砲撃を開始し、再びアメリカ軍の渡河中の船を狙い撃ちした。 これと同時にモホーク族の指導者ジョン・ノートンとジョン・ブラントが部隊を率いて高地の上に登り、突如スコットの陣地に急襲をかけた。この時誰も殺されず、モホーク族は森に逃げ隠れたが、アメリカ軍の精神状態はインディアンの怖さでひどく影響を受けた。インディアンの立てた雄叫びはルイストンの町でもはっきりと聞こえた。ヴァン・レンセリア将軍は最早民兵を煽てて川を渡らせることができなくなった。ヴァン・レンセリア将軍は市民の船乗りを連れてきてカナダ側にいる部隊を引き揚げさせようとしたが、これも拒絶された。 ロジャー・シェフ少将は午後2時にクィーンストンに到着し、イギリス軍の指揮を執った。シェフはさらに援軍を集め、アメリカ軍の大砲を避けながら3マイル (5 km)の回り道をして、クィーンストン・ハイツに向かった。そこでシェフ隊はチッパワからの別の増援隊とも合流した。全軍で800名以上となった。午前中にブロックの下で戦っていた残兵を集め、第41連隊の5個中隊と民兵の7個中隊および3ポンド砲2門ということになった。 シェフは部隊を編成しなおして準備をさせ、午後4時に攻撃を開始した。ヴァン・レンセリアが攻撃を開始してから13時間が経っていた。アメリカ軍の民兵はインディアンの雄叫びを聞いてから悪い方に運が傾いたと思い、「大挙して」命令も聞かずに撤退を始め、スコット大佐に残された守備兵はわずか300名となってしまった。スコットはシェフの大部隊に面してアメリカ軍を撤退させようとしたが、兵士を逃がそうにも川に船が無く、モホーク族は2人の酋長の死で猛り立っていたので、虐殺を恐れたスコットはイギリス軍への降伏を選んだ。それでも興奮したインディアンは高地から川岸に群がるアメリカ軍に向かって銃撃を数分間続けた。降伏が成立した後で、高地の周りに隠れていた500名のアメリカ軍民兵が出てきてやはり降伏したのを見てスコットは衝撃を受けた。
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