コレッティスの独走とクリミア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:45 UTC 版)
「ギリシャ王国」の記事における「コレッティスの独走とクリミア戦争」の解説
憲法が制定されギリシャに立憲君主制が成立、初の選挙が行われる事になったが、首相コレッティスはありとあらゆる手段を駆使して対立者を排除、選挙に勝利して権力を握る事となった。さらにこんどはバイエルン人を排除したギリシャ人政治家による独断政治が行われ、コレッティスは首相就任後、極端な中央集権主義者と化しオソン1世に政治へ介入することを求めた。そして、コレッティスはメガリ・イデアの実現を願っており、国内政策に対しては無為無策でギリシャの領土拡大のみを狙っていた。そのため、憲法は事実上、無力化しギリシャ政治は腐敗化、一種の議会制独裁政治と化した。そして1847年にコレッティスが死去すると相次いで内閣が組閣されたが、これらは全てオソン1世の意向を意向を受けた形骸化した内閣であり、しかも、短命な政権が続いたことにより、列強の介入の拡大を導き出すこととなった。 1848年、ヨーロッパ各地では革命の風が吹き荒れていたが、これはギリシャにも影響を与えた。しかし、これは自由主義を目指したものではなく、メガリ・イデア実現を目指す自由主義的、保守的な動きと化した。ギリシャ、オスマン帝国国境では不正規軍らによる衝突が勃発し、メガリ・イデア実現を目指す秘密結社が暗躍したが、これはオスマン帝国内のギリシャ人に対する憎悪とイギリスの怒りを招いたにすぎなかった。 さらにオスマン帝国を巡ってイギリス、フランス、ロシアら列強による競争がこれに拍車をかけることになり、オソン1世は立憲君主主義者らの暗躍を嫌ってロシアに接近を試みていた。列強の中でもイギリスはギリシャの自由主義的改革を臨んでおり、絶えず借款の利払いを求めていた。そしてイオニア諸島の一部であると主張していたペロポネソス半島沖合いの小島2箇所やギリシャ王室が差し押さえた土地への補償などを求め、さらにドン・パシフィコ事件の補償を求めた。 オソン1世とギリシャ政府は当初、これに対してのらりくらりとかわし続け、後には抵抗を強めたが、そのため、イギリスのパーマーストン外相はギリシャにおける影響力の確立することを決定、1850年4月から7月までイギリス艦隊はギリシャ封鎖を実施、ピレウス港を封鎖してイオニア諸島のギリシャ人の蜂起を鎮圧した。 これにはルイ・ナポレオン率いるフランスが積極的に介入しロシアが厳重な抗議を行った事により解除されたが、この政策はギリシャ人らに反発をもたらしただけであり、世論はロシアへ向き、さらオソン1世の人気を高める結果となった。そのため、ロシアは借款の元利を放棄、さらにギリシャ正教会とコンスタンティノポリス総主教との間を取り持ち、1850年1月29日にギリシャ正教会の独立が正式に認められ、コンスタンティノポリス総主教はギリシャ大主教を議長とする主教会議の下にギリシャ正教会が自主独立したとする主教会議令書を発したが、この出来事はロシアがイギリスにかわってギリシャの保護者となったことを示していた。 これらイギリス、ロシアの活動により、クリミア戦争が発生すると1854年、ギリシャはロシア側につき、当時オスマン帝国領であったイピロス、テッサリア、マケドニアでは蜂起が発生、オソン1世は『メガリ・イデア』を支持してギリシャ不正規軍がオスマン帝国領へ侵入することや正規軍が不正規軍を補強することを黙認、さらにはクレフテスや大学生らがゲリラ部隊に参加、イピロス、テッサリア、マケドニアに侵入した。 しかし、この蜂起はオスマン帝国軍によって鎮圧され、さらにイギリス・フランス両国はイピロス、テッサリア、マケドニアにおけるギリシャ人の蜂起にたいしてもピレアス港を閉鎖してギリシャに中立宣言をさせ、オスマン帝国の維持を図った。そしてクリミア戦争が終了した後もイギリス、フランス軍らは占領を続け、クリミア戦争の講和会議でもあるパリ会議にはギリシャの参加を拒んだ。結局、この占領は1857年まで続き、さらに1859年までは監視委員会が設置されたままであった。
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