ドン・パシフィコ事件
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「ドン・パシフィコ事件」の解説
1850年初夏、ギリシャ・アテネ在住の英国(ジブラルタル)籍のムーア人系ユダヤ人商人ドン・パシフィコ(英語版)は、その前年に反ユダヤ主義者に邸宅を焼かれて財産を奪われた件で巨額の賠償金をギリシャ政府に要求したが、ギリシャ政府はこれを拒否した。パシフィコはイギリス外務省に助けを求めた。 ちょうどこの頃イギリスとギリシャはイオニア諸島の領有問題で争っていたため、パーマストン卿はこの事件をギリシャ恫喝の絶好のチャンスと見た。英国艦隊をピレウス港に派遣し、パシフィコの要求に応じるようギリシャ政府を恫喝した。ギリシャ政府はこの恫喝に屈服し、パシフィコに賠償金を支払い、またイオニア諸島のイギリス領有を認める羽目となった(ドン・パシフィコ事件(英語版))。 このパーマストン卿のやり方をフランスやロシアが批判し、国内でもヴィクトリア女王や野党が批判した。女王は「一個人の利益のために国家全体を危険に晒してはならない」と訓戒した。貴族院はパーマストン卿不信任案を決議した。庶民院でもピール派のウィリアム・グラッドストン、保守党のベンジャミン・ディズレーリ、急進派(英語版)のリチャード・コブデンら野党議員が鋭く批判した。 これに対してパーマストン卿は6月25日に答弁に立ち、次のような歴史に残る演説で反論した。 古のローマ市民が『私はローマ市民である』と言えば侮辱を受けずにすんだように、イギリス臣民も、彼がたとえどの地にいようとも、イギリスの全世界を見渡す目と強い腕によって不正と災厄から護られていると確信できるべきである。 この英国民の自尊心をくすぐる演説は圧倒的な世論の支持を受け、たちまちのうちにパーマストン卿は国民的英雄となった。この演説には野党議員さえもが感動し、グラッドストンは「並はずれた名演説」と評し、ロバート・ピールは「我々の誰もが彼を誇りに思わずにはいられなかった」と評した。 情勢は逆転し、庶民院は46票差でパーマストン卿不信任案を否決した。
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