グループA時代 (1987年 - 2001年)
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「世界ラリー選手権」の記事における「グループA時代 (1987年 - 2001年)」の解説
1987年の世界ラリー選手権はグループA規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5,000台以上の生産が義務づけられたほか、様々な改造規制が加えられて市販車に近いものとなった。しかしハンドリングの向上とタイヤの性能が進化したことにより車両性能は落ちるどころか年々向上し、3年後にはグループBのマシンを凌駕する速さを身に付けた。フルタイム4WDと2.0 Lのターボエンジンは必須の装備となっていたが、その様な高性能なスポーツ車両を生産し販売出来るメーカーは少なく、参戦メーカー数は減少した。 ランチアはデルタをベースとした車両を製作してグループA時代を牽引するが、これに日本のメーカーが勝負を挑む。日本の自動車市場は4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、日本車メーカーはこぞって高性能な4WDスポーツ車を販売し、1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、トヨタ、スバル、三菱、日産、マツダといった日本のメーカーがWRCを席巻した。 トヨタはセリカでランチアの厚い壁に挑み続けて遂に撃破し、日本車としては初のドライバーズおよびマニュファクチャラーズ選手権を制覇した。またスバルはインプレッサで1995年 - 1997年にマニュファクチャラーズ・タイトルを3連覇、三菱自動車のランサーエボリューションが1996年 - 1999年にドライバーズ・タイトルを4連覇、特に1998年はマニュファクチャラーズ、グループNと合わせハットトリックを達成するなどし、1990年台後半は日本車勢がタイトルを総舐めにした。 一方グループAの2,500台(1992年までは5,000台)という最低生産台数と市販車に近い規則が負担となり、高性能4WDを市販車のラインナップに持たないメーカーは撤退の一途を辿っていたため、より参戦の門戸を広げる必要があった。こうして1995年にはフランスメーカーたちの提案により、FIA 2リッターワールドカップ向けに、改造範囲の広い2WD/NAエンジン車のF2キットカー規定が導入された。この動きは将来のWRCの2WD化を見越してのものであったが、既存のメーカーたちから反発を受けて、結果F2キットカーの4WDターボ版とも呼べるワールドラリーカー (WRカー) 規定が1997年より導入されることで決着した。F2キットカー規定はその後規制緩和により戦闘力が向上し、1999年にはフィリップ・ブガルスキーがターマックでWRカーをも下して2勝を挙げる活躍を見せたが、これをきっかけに重い性能調整を受けて衰退。2WD規定はスーパー1600へと発展し、現在のJWRCに繋がっている。 1997年にほとんどのメーカーがWRカーに移行する中、三菱だけはグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチャラーズタイトルを、1999年もドライバーズタイトルを勝ち取るなどの戦果を挙げ、2001年半ばまでグループAで戦い続けた。
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