クルシュー潟の横断
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「クルシュー潟越えの追撃戦」の記事における「クルシュー潟の横断」の解説
スウェーデン軍襲来の急報は1678年12月、スウェーデン側のシュテッティーン要塞を攻囲中であったフリードリヒ・ヴィルヘルムに届いた。彼は4年前、スウェーデン軍を辺境伯領から撃退した時と同じように凍てつく寒さと冬営の慣行を突き、「迅速な騎行」をもってこれを東プロイセンから追い払おうと決断する。そして12月中旬、9,000名の兵と大砲30門を伴い、ベルリンからプロイセンに向った。1月20日にはヴァイクセル川を渡り、歩兵の最初の召集地であったマリーエンヴェルダー(英語版)に至る。選帝侯はここで、後に有名となった「大橇行」(Große Schlittenfahrt)の準備を整えた。 現地の総督や市参事会に宛てた書簡の中で、侯は自軍のため1,100台の橇と馬600頭から700頭を用意するよう命じている。そして12月30日には進軍を開始した。1679年1月10日にはマリーエンヴェルダーで、オーダー川からヴァイクセル川まで急ぎ引き連れてきた小さな軍勢の閲兵を行っている。その他、侯はケーニヒスベルクに配置されていたゲルツケ(ドイツ語版)中将率いるブランデンブルク騎兵3,000名に、退却するスウェーデン軍の即時追撃を命じた。同軍は選帝侯の到着が報じられると、リヴォニアに向けて撤退を開始し、1679年1月29日にティルズィットに入っていたのである。この敵軍の包囲と捕縛はもう検討に入らなくなっていたため、重要なのはスウェーデン軍に追い付くことであった。選帝侯は強行軍でブラウンスベルク(英語版)、続いてハイリゲンバイルに至ると、時間を節約するためカルベン(ドイツ語版)から橇に乗ってヴィスワ潟(英語版)を渡る。 ブランデンブルクの騎兵隊は命令に従い、スウェーデン軍に追い付こうとした。選帝侯がケーニヒスベルクに到着したのは1月16日のことである。続いて自軍を3つに分けると、ティルズィットを占領して休養に入っていたスウェーデン軍の追撃を再開した。プロイセン側の3つの軍団は先鋒1,000名と本来の前衛(英語版)3,000名および主力軍、約5,000名に分けられていた。先鋒はヨアヒム・ヘンニゲス・フォン・トレッフェンフェルト(ドイツ語版)大佐、前衛はゲルツケ中将、主力はデアフリンガー元帥と選帝侯自らが率いていた。そして10日前にヴィスワ潟を渡った時と同じように、ラビアウとギルゲ(ドイツ語版)の間でクルシュー潟(英語版)を越える。トレッフェンフェルト大佐指揮下の騎兵1,000名から構成された先遣部隊は主力の到着を待たず、ティルズィットで宿営していたスウェーデン軍の諸連隊を襲撃し、打ち破った。この戦いでスウェーデン軍は数百名を失っている。 翌日、ゲルツケ中将と先の勝利に報いて少将に昇進していたトレッフェンフェルト率いる、ブランデンブルク騎兵は撤退中のスウェーデン軍を改めて襲う。シュプリッターの戦いではスウェーデンの将兵1,000名が戦死し、300名が捕虜となり、大砲5門が鹵獲された。続いて1月21日、ゲルツケ中将はハイデクルークの戦いで敵軍の後衛を攻撃し、その半数を殲滅する。スウェーデン軍はリトアニア領を経由して退却を継続した。これを受けて選帝侯は2月2日、追撃を中止する。自軍においても補給の不足、寒さと病気の蔓延が無視できなくなっていたからであり、その後はプロイセンで宿営に入った。スウェーデン軍に対しては、もはやシューニンク(英語版)少将指揮下の騎兵、1,500名から構成される小規模な分遣隊に追撃させるのみであった。この分遣隊は2月7日、ジェマイティヤのテルシェイでスウェーデン軍の後衛と交戦している(ドイツ語版)。そしてリガまで8マイルの地点で追撃を止め、メーメルに向けて2月12日に撤退を開始した。この早期撤退をもってシューニンク少将はゲルツケ中将の命令に反し、メーメルに居る間に選帝侯の指示によって逮捕される。この逸話は、同時代の著述家によって「戦略的に有利な時、余りにも早く撤退する」ことを指す「シューニンク機動(ドイツ語版)」という罵倒表現が広められるきっかけとなった。 一連の戦闘の結果、かつては12,000名から16,000名を数えたホルン元帥指揮下のスウェーデン軍の内、リヴォニアのスウェーデン領に戦闘可能な状態で帰還したのは騎兵1,000名と歩兵500名のみであった。
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