ガラ紡と洋式紡績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 23:47 UTC 版)
イギリスでは16世紀以来、農村毛織物工業を中心に問屋制・マニュファクチュア形態の資本主義工業が発展していたが、18世紀になると木綿工業から産業革命が始まっている。紡績・織布機械の発明と動力機関の発明である。フランス・アメリカ・ドイツなどは、これら技術を導入して自国工業を発展させ、19世紀半ばすぎに産業革命を達成した。ロシア・日本なども、20世紀初めころに産業革命を成し遂げた。しかし、それ以外のアジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸地域は自国工業の発展を図れずに、資本主義諸国の植民地・従属国になった(この段落は、高校教科書『世界史』実教出版、1987年版による)。 このような時代背景の下に、1868年(明治元年)から1877年までの10年間の輸入総額約2億4600万円のうち、36%を生活必需品でもある綿糸布が占めている。この外国綿糸布の激しい流入は、日本が欧米資本主義に屈服するきっかけにもなる大問題として意識されていた。これを受けて薩摩藩は、1867年に鹿児島紡績所を、1870年に堺紡績所を、1872年には東京に紡績所を開設した。しかし、1878年での西洋技術での綿糸産額は、3府5県7工場の合計で、同年の綿糸布輸入額の2.8%でしかなかった。だが、日本にはまだ、近代的技術と資本をもって大規模な工場制度を移植する基盤がなかった。そこで政府は、生糸製糸における富岡製糸場と同様に、官営模範工場を綿花産地であった広島に1880年、愛知に1881年に開設したり、紡績機械の無利息年賦償還払下げをするなど、政府保護による機械紡績工場を増やしていく。 こうした中で、臥雲辰致は1873年に最初のガラ紡を発明し、改善を加えて、1877年の第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受賞する。ガラ紡の簡易な構造は、巨大な建設費を要する西洋式の紡績に比べ、少ない資本で設置できることから、広く普及した。連綿社の経営は第1回内国勧業博覧会ののち、しばらくの間は活況を呈し、東京にも支店を設けて、紡機585台を製造販売した(585台の期間は不詳)。山梨県・石川県にも、支社を設けた。しかし、購入者の中には、買い求めた機械の1~2の仕組みを変えて模造し他に販売しようとする者や、技術未熟のまま事業を始めて実績が上がらない者もいた。またこの時代には特許制度が未確立だったため、発明品の模倣は自由に行えたし、臥雲辰致は模倣されることを意に介さなかった。このため、連綿社は経営不振に陥り、内部に紛糾も生じた。1880年7月には東京支店を閉鎖、同年12月には事実上解散した。ガラ紡は臥雲辰致にあまり富をもたらさなかったが、明治10~20年の日本の綿業を支えた。綿花の産地でもあった三河では、同業組合の組合員数が1884年に264、1887年に483、1888年に481、1890年に208、1892年に206と推移しており、1887~1888年が初期のガラ紡界にあっては黄金時代であった。しかし例えば愛知県では、1885年以降、大規模な洋式紡績工場が続々と建設され、それらが盛んになるにつれ、ガラ紡は逆境を迎える。織布業者が、使用する糸をガラ紡糸から洋式機械紡糸にしだいに転換するからである。日本でのこうした洋式機械紡糸の発展は、1888年に1361万円の綿糸を輸入していた日本が、1890年には初めて2000円を輸出、1897年には、輸入962万円に対して輸出1349万円と、初めて輸入を輸出が上まわり、1903年には綿糸の生産80万梱、輸入3000梱、輸出30万梱と変貌し、軽工業国日本の確立へと向かう。
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