カトリック教会当局の反応
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「ペルボワサンの聖母」の記事における「カトリック教会当局の反応」の解説
この出来事に対する最初の調査は、ブールジュのラ・トゥール・ドーヴェルニュ大司教が行った:110。 エステルは、大司教の許可を受け、1876年4月30日に自分の難病が完治したお礼として、お告げに出てきたとおりの石板を教区教会の壁に貼り付けた。12月8日には、エステルの寝室が小さな礼拝堂に衣替えされ、その数日後に大司教がエステルの謁見を受けて、聖心のスカプラリオを量産することを許可した:109。 1877年に、大司教は聖母出現の調査を提起し、エステルを知る56名について尋問をした。コメントを控えたいとする1名を除き、その他はエステルに好意的な話をした。2度目の尋問は1878年12月に行われたが、結果は似たようなものだった:110。 全ての恵みの母の会が1877年7月28日に設立されたが、その際に、ペルボワサンの聖母出現については何も語られなかった。(しかしながら、聖マルグリット・マリー・アラコクの聖心に関する事柄について言及はあった) この会則は、4月27日に認められた:109。 1892年にローマ教皇レオ13世はペルボワサンの聖母聖堂について、2つの許可を出した。一つはこの聖堂で蝋燭を捧げること、もう一つはこの地を巡礼するものにいくつかの免償が与えられることである:111。1894年には「栄誉ある信心会の連携」の像を作成する奉仕団体を設立し、1896年5月12日には像が完成した:112。教皇レオ13世は1900年1月17日、18日に一般謁見者たちの前でこの像を受け入れ、ローマ教皇庁・典礼省、現在の典礼秘跡省は「聖心のスカプラリオ」の使用について、認可を検討すべきだとした。この正式な認可が与えられたのは、1900年4月4日である:112 & 114。 1893年には、ボワイエ大司教がこの聖堂の近くにドミニコ会の修道院を招へいした:113。 1897年4月にはサボネ(Servonnet)師がブールジュの大司教になった。同じ年の8月14日にこの大司教はペルボワサンの聖母聖堂に関する出版物に関する許可について、前任者の許諾を更新した。その後にフランス国内及びカナダから多数の嘆願書が届き、大司教は3度目の諮問会を開いた。それによってエステルが信頼できる証言者であることが再度確認された:113。 1903年4月16日、かつて、エステルの寝室であった礼拝堂が、その場所の処分権限を持つラ・ロシュフコー伯爵夫人によって公式に閉鎖された。1903年にはその閉鎖された礼拝堂にたくさんの巡礼者たちが鈴なりになって押し掛け、40名の警察官が動員される程であった。サボネ大司教はこの礼拝堂の前に集まってはならないとした:115。 1915年10月17日、ローマ教皇ベネディクト15世は、聖母がご自分の恵みを配分するための特別な場所として、ペルボワサンをお選びになった、とコメントを出した:117。 1922年12月22日ローマ教皇庁・典礼省(現在の典礼秘跡省)は、ペルボワサンの地元教区教会と、聖母聖堂に隣接する修道院において、9月9日にペルボワサンの聖母への奉納ミサを行うことを許可した:119。 1936年6月7日にローマ教皇ピウス11世はペルボワサンの聖母の絵画をドミニコ会に寄贈した。この時にドミニコ会へ手渡したのはパセリ(Pacelli)枢機卿、後のローマ教皇ピウス12世である:119。 1981年12月7日、ブールジュのポール・ヴィニャンクール大司教はエステルが難病から治癒した経緯について詳細に調査する医学諮問委員会を立ち上げた。1982年9月6日、その報告として、このエステルが治癒した理由については現在の科学的手法で解明することができないとし、あきらかに「奇蹟」と呼ぶことができるとの結論に達した。1983年9月4日、ペルボワサンの巡礼者たちに対し、大司教は調査委員会がエステルの難病からの治癒について、奇蹟的な性格を持つものであることを見出したと話した。これは9月9日に文書として公式に確認された:122,125,126。 1984年9月9日、ペルボワサンの聖母に対するノベナが認可された:123。
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