カトリック教会内部からの異論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 14:12 UTC 版)
「教皇不可謬説」の記事における「カトリック教会内部からの異論」の解説
1870年に第1バチカン公会議で教皇不可謬の教義があわただしく決定された後、ドイツ、オーストリア、スイスのカトリック関係者から教皇不可謬を教義として宣言することへの疑問が示された。彼らは公会議の不可謬については異論がなかったものの、教皇の不可謬権については納得できず、あるものはカトリック教会を離れ、復古カトリック教会といわれる独自のグループを形成した。 詳細は「復古カトリック教会」を参照 カトリック教会内部にも教皇不可謬を教義とすることは受け入れがたいと考えていたものがいた。たとえば神学者ハンス・キュングや歴史家ギャリー・ウィルスなどがそうであった。1989年から1992年にかけて15歳から25歳までの教皇不可謬の教義について十数カ国(アメリカ合衆国、オーストリア、カナダ、エクアドル、日本、フランス、アイルランド、イタリア、韓国、ペルー、スペイン、スイス)のカトリック青年を対象に調査が行われた。結果は不可謬を教義として受け入れられるというものが36.9%、受け入れられないというのが36.9%、よくわからないというのが26.2%という結果であった。(出典: Report on surveys of the International Marian Research Institute, by Johann G. Roten, S.M.) 近代的な意味での不可謬に対してさまざまな反論が見られる。たとえばブライアン・ティエーニーのあらわした『教皇不可謬性の起源 1150-1350』(ライデン、1972年)。議論を巻き起こしたものとしては教皇不可謬という考え方は正しいとか、間違いという以前に無意味なものであるというウィトゲンシュタイン研究でも有名なイエズス会員ガース・ハレットの『光と影 教義の分析』(サンパウロ、1975年)がある。
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