オーストリア軍
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「アウステルリッツの戦い」の記事における「オーストリア軍」の解説
カール大公(オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、宮廷戦争会議(Hofkriegsrat:オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わってカール・マック中将が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個中隊から成る大隊が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。
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オーストリア軍
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「マクシミリアン・デ・アンゲリス」の記事における「オーストリア軍」の解説
ハンガリー王国の首都ブダペストに陸軍大尉の息子として生まれる。アイゼンシュタットの陸軍幼年学校を卒業後、ヴァイスキルヒェンの士官学校に入学、さらにヴィーナー・ノイシュタットのテレジア軍事アカデミーに学んだ。1908年に第42野戦砲兵連隊に少尉として入営した。 第一次世界大戦が始まった1914年8月に中尉に昇進、9月に同連隊の第2中隊長に任命され、ガリツィアおよびポーランド南部の戦闘に従軍。1915年7月に皇帝猟兵師団参謀に転じ、1916年10月に第2皇帝猟兵旅団参謀に就任。間もなく第1皇帝猟兵旅団および第88歩兵旅団に転属した。1917年5月に大尉に昇進。1918年11月にイタリア軍の捕虜となり終戦を迎える。1919年10月に釈放された。
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オーストリア軍
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オーストリア軍の指揮官はオーストリア領ネーデルラント総督アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンだった。彼は2万人以上の軍勢を有したが、長い防御線に散らばっていたためジュマップでは歩兵11,628、騎兵2,168、大砲56門で戦った。彼はこの軍勢をもって左側のモンスから右側のジュマップまで続くクウェムの尾根を守備した。 オーストリア軍右翼はフランツ・フォン・リリエン(Franz von Lilien)が、中央はフランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ伯爵、左翼はジャン・ピエール・ド・ボーリュー(英語版)が指揮した。リリエンの軍勢は4個歩兵大隊、7個歩兵中隊、3個騎兵大隊で、クロワの軍勢はクウェム村にいた3個歩兵大隊と4個騎兵大隊、ボーリューの軍勢はベルテモン(Bertaimont)の南にある山上の3個歩兵大隊とその左翼を守る5個歩兵中隊と1個騎兵大隊だった。さらにモンスに1個歩兵大隊がおり、最左翼のモン・パリセル(Mont Palisel)近くに2個中隊がいた。 オーストリア軍はトロイユ川(Trouille)と森の周りにある沼地で後ろに2つのダムがあるところで陣地を構えた。そのため、それ以外の撤退の経路はモンスを経由する道だけだった。
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