インディーズ高校生バンドとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 03:19 UTC 版)
「人生 (バンド)」の記事における「インディーズ高校生バンドとして」の解説
人生(ZIN-SÄY!)のメンバーは顔にメイクをしており、卓球は白塗りに片目が赤、片目が青の独特なメイクで、時に怪しいピエロ風、時にカッターシャツにネクタイ、時に大ファンである鬼太郎ファッションに身を包んでいた。また畳(ピエール瀧)は、時にドラえもん、時にゴルゴ13、時には殿様などのコスプレをしていた。 1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日に静岡サーカスタウンでデビューライヴが行われた。この時は卓球ひとりでカラオケライブをしていた。デビュー当初は「都節で童謡+打ち込み+エコーエフェクト」といった様式で、つたないながらも後年の電気グルーヴのスタイルをやや想起させる曲調であった。後に卓球の友人関係からメンバーが増え、同年6月28日に夜中の静岡駅で行った3回目のライヴからピエール瀧(当時の芸名は畳三郎)もメンバーとして正式に参加する。 人生(ZIN-SÄY!)は初期から「ロックンローラーに対抗して歩行者天国でマイムマイムを踊る」「地球儀をつけて夜中に町を徘徊する」「自転車やハードルをステージに持ち込む」「マヨネーズやボンカレーを顔に塗りたくる」といったゲリラ的なパフォーマンスやコントを行っており、これが後に電気グルーヴの瀧のパートにつながっていった。また静岡時代のメンバー構成は非常に流動的で、多い時には10人以上に達したが、のちに卓球、畳三郎、おばば(EX分度器)、若王子耳夫、グリソン・キム、越一人の6人が主要メンバーとして固定された。 1986年、静岡モッキンバードで有頂天の3度目の前座をした時に、ナゴムレコードを主宰するケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)から「レコード出さない?…ナゴムから出さないでどこで出す!?」と言われた。その後、卓球の勉強部屋で1985年夏に自宅録音されたデモテープが、そのままナゴムから1stソノシート『9TUNES FOR MIRAI』として発売されることをきっかけに、ナゴムに就職する気持ちで上京する。ちなみに上京直後に卓球の音源をミックスしたのは当時CSV渋谷の店員だったもすけさんの山口優(現在はマニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ代表/作曲家)と東京タワーズの岸野雄一(ナゴムレコードの命名者)だった。 同年6月6日と8月29日に行われたナゴム総決起集会では筋肉少女帯、ばちかぶり、死ね死ね団らと共に出演。その特異なパフォーマンスが注目を集め、同年11月6日にはナゴムギャルのまゆたん(ガールズバンド「マサ子さん」を後に結成)を中心に新宿ロフト前でファンクラブ「人生教」が発足する。その後、インディーズ・ブームに上手く乗っかり、レコードは作品を出す度にインディーズ・ベスト10にランク・インされる程の人気者になると同時に、ナゴム人気にも貢献する。 インディーズバンドとしては各種の大学の学園祭に呼ばれ公演を行うなど、評判は決して低くなかったが、レコード会社からの声は一向にかからなかった。その後、バンドブームによってよりオーソドックスなバンド形態になるが、便乗しきれず、エレクトロニカへの趣向を隠さなかった卓球の葛藤からなかなか芽が出ない、結果が出せない困窮した状況が続いていた。そして1989年4月26日、おばば(EX分度器)脱退を記念した「おばば崩御 さよならおばば(EX分度器)ツアー」において、梅田にあったバーボンハウスでのライヴ(卓球の好きな大阪に拘った)を最後に解散。最後に卓球は「今は“電気”というバンドもやってますので、そちらもよろしく!」といった言葉を残し、後継バンドが存在することを示唆して終演した。
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