インディアンによる占拠事件
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「アルカトラズ島」の記事における「インディアンによる占拠事件」の解説
詳細は「アルカトラズ島占拠事件」を参照 連邦刑務所閉鎖後、跡地をどのように活用するか様々なアイデアが出された。カジノの建設やテキサスの大富豪によるテーマパーク及びショッピングセンターの建設計画などが持ち上がったがどれも実現しなかった。 1969年11月20日から1971年6月11日までの約1年半、インディアンたちがこの島を占拠して、アメリカ合衆国連邦政府に対する抗議活動を行った。それに先立つ1964年、スー族のリチャード・マッケンジー率いる5人がこの島に渡り、インディアンの権利を訴えた。この時の滞留時間はわずか4時間であったが、この島をインディアンのための文化センター及び大学を建てる場所としてほしいという彼らの要求は、後の1969年の占拠事件で復活することとなった。 1969年、モホーク族のリチャード・オークスと、それを支持する様々な部族のインディアンたちが、「全部族のインディアンたち」(Indians of All Tribes) というグループを結成し、モンテ・クリスト号に乗って島に渡り、この土地がインディアンのものであることを宣言した。彼らがこの島の占拠にあたって法的根拠としたのは、スー族やラコタ族などの諸部族と連邦政府との間で1868年に結ばれたフォート・ララミー条約(英語版)であった。この条約の中には、連邦政府の所有する土地のうち放棄された土地や使われていない土地は、その土地の元の所有者であった先住民が取り戻すことができる、という条文があった。 彼らは、その日のうちに島から引き揚げたが、その後長期間の占拠を計画し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の学生約80人を含むインディアン約100人が島に渡り、同月20日から占拠を始めた。島内では評議会が組織され、治安、公衆衛生、学校、住居など、様々な事柄が占拠メンバー全員で決められた。連邦政府に対しては、インディアンの大学、文化センター、博物館の建設を求めたが、連邦政府側は要求は受け入れられないとし、立ち退きを求めた。 そうした中、占拠メンバーの中にもリチャード・オークスと対立するグループが現れて内部分裂が生じたり、学生が島から引き揚げるのに代わって都市やインディアン居留地から新たなメンバーが加わったりし、さらにはインディアンでないサンフランシスコのヒッピーやドラッグ使用者まで島に住むようになった。1970年に入ってオークスは義娘の事故死をきっかけに島を去り、派閥争いは激化した。こうした状況に対し、連邦政府は当初不干渉の態度で臨み、FBIや沿岸警備隊も手を出さなかったが、これは自然に占拠メンバーらの大勢が撤退に向かうのを待つ意図であった。しかし、占拠メンバーは島の所有権と大学等の建設を主張して譲らなかった。 1970年中頃、連邦政府側は電力の供給を止め、水を供給していた輸送船も撤去した。その3日後、火災が発生していくつかの古い建物は焼けてしまった。1971年に入り、派閥争いなどの内部の混乱が続く中、連邦所有建物からの金属材の窃取や暴力事件が伝えられるにしたがって、当初は占拠側に好意的だった世論の支持も失われていった。リチャード・ニクソン大統領が立ち退き計画にゴーサインを出し、1971年6月10日、在島者の少ない時を狙って、武装した連邦保安官、FBI特別捜査官及びカリフォルニア州警察特殊部隊が島を急襲し、5人の女性、4人の子ども、6人の非武装の男性を立ち退かせ、これによって占拠は終了した。 この占拠事件は、インディアンの土地を取り上げ、その文化を絶やそうとする連邦政府の政策に対する、部族を超えた初めての抗議活動という意味を持っていた。島の利用についての占拠メンバーの要求は受け入れられずに終わったものの、インディアンの置かれた状況を世に訴えるとともに、その後のインディアンの抗議運動の引き金となり、連邦政府にインディアンの権利を尊重した政策へ転換させるきっかけとなったと評価されている。
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