インディアンと遺骨の返還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:53 UTC 版)
「ウィスコンシン州」の記事における「インディアンと遺骨の返還」の解説
19世紀末から、合衆国ではインディアンの伝統墓地が「研究のため」として、次々に白人の大学の研究者らによって暴かれ、遺骨が収奪されてきた。民族の尊厳を踏みにじるこの行為は、20世紀末に至るまで、公然と実行されてきた。ことに連邦によって公認を打ち切られ、「絶滅した」ことにされたインディアン部族は、伝統墓地の所有権までもが没収されたため、伝統墓地の破壊に対する法的な抗議権も認められてこなかった。同時にインディアンたちの生活民具や、大切な儀式の道具も没収され、各州の大学や「インディアン博物館」に陳列・展示されてきた。 こうして強奪没収された遺骨や民具のインディアンによる返還要求運動が1980年代前後から始まり、同様の要求運動は、アフリカ黒人諸国によっても欧州に対して行われ、世界的な潮流として高まっていった。1990年、この要求に対し、アメリカ連邦政府はこれらの遺物の部族に対する返還を目的とする法、「アメリカインディアンの墓地の保護と遺物返還法(NAGPRA)」を制定した。これにより、各州の博物館、大学から遺骨を始めモカシンや羽飾りといった民具、はては呪物に至るまでが、それぞれの部族に返還されるようになった。しかし膨大な数のこの遺物返還に関しては、さまざまな問題が持ち上がっている。 2009年9月、ミルウォーキー市の「公共博物館」は、この「NAGPRA」に基づき、館内に保管された数千年前からのインディアンの遺骨の返還手続きに入った。同州周辺のインディアンの伝統墓地を暴いて収集された遺骨は、「子供」などと無造作に書かれたポリ袋に個別に詰められて倉庫に眠っており、まずはスペリオール湖チッペワ族の「ラ・デュ・フランビュー・バンド」と「ラ・コート・オレイリー・バンド」の二部族への遺骨返還が行われる。この遺骨返還は、還す側にも還される側にも多大な負担を強いるものとなっている。チッペワ族は遺骨を再埋葬するのか保存するのかの計画を立てねばならず、公共博物館は遺骨がどこの部族のものか数千項目の判定をしなければならない。チッペワ族ラ・デュ・フランビュー・バンドは、この作業に「少なくとも20年は必要だろう」としている。
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