インディアンと白人の抗争の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 04:41 UTC 版)
「インディアン戦争」の記事における「インディアンと白人の抗争の開始」の解説
インディアンと白人の間で大規模な抗争に発展した最初期のものは、1637年のピクォート戦争が挙げられる。この戦争は、イギリス人交易業者の1隊が殺されたことに端を発し、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地の白人が、ピクォート族と敵対していたモヘガン族を利用してピクォート族を殲滅するという結果になった。入植初期のピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地を購入するという形を採っていたが、この頃から清教徒が大挙して入植するようになり、入植者が勝手にインディアンの土地に入り込むというような形態が生まれた。 1650年代になると、イロコイ族がヌーベルフランスの入植者を襲うようになった。これに対してフランスが軍隊を組織して反撃を行い、一時的に休戦時期はあったものの、この敵対関係は約半世紀続いた。この戦争はビーバー戦争と呼ばれる。イロコイ族のように一時敵対していたものが一旦和平を結ぶと、その同盟相手が他の白人と戦争を行う場合は強力な戦力となった。 17世紀中頃から後半にかけて、ニューイングランドは何度も疫病の流行に悩まされ、免疫力の無いインディアンが大きくその数を減らした。1670年代のニューイングランド南部の人口は、白人35,000人に対してインディアン15,000人と大きく逆転していた。1675年、それまで白人に対して友好的な姿勢で臨んできたワンパノアグ族のメタコメットたちが反旗を翻した。白人はメタコメットを「指導者」と勘違いして「フィリップ王」と呼んでいたので、この戦争はフィリップ王戦争と呼ばれている。ワンパノアグ族の攻撃でポートランドなどの入植地は壊滅的に破壊されたが、ニューイングランドを挙げての反撃と他のインディアン部族も白人に味方したことで、ワンパノアグ族も最後は大敗し、その人口は10分の1以下になったとされている。 18世紀に入って、それまで比較的平穏であったカロライナ植民地で、インディアンの反乱が続いた。1711年に始まったタスカローラ戦争と、その終結後、間も無い1715年のヤマシー戦争である。タスカローラ戦争で敗れたタスカローラ族の残党は北へ逃れてイロコイ連邦に合流した。同様にヤマシー戦争で敗れたクリーク族は南に逃れ、一部はスペイン領フロリダに入ってセミノール族と連合を組み、その抵抗は19世紀半ばまで続いた。
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