イッター城収容所
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「イッター城の戦い」の記事における「イッター城収容所」の解説
イッター城(英語版) (Schloss Itter) は、オーストリアのイッター(英語版)という村に建てられた小さな城である。19世紀頃からは様々な所有者によってホテルや別荘として使用され、1925年にはチロル州の副知事フランツ・グリューナー(ドイツ語版)が美術品を保管する施設として買い上げた。 アンシュルス後の1940年、グリューナーとドイツ政府当局の間でイッター城の賃貸契約が結ばれた。1942年にはタバコの害悪と戦うドイツ同盟(Deutscher Bund zur Bekämpfung der Tabakgefahren)のオストマルク本部として使用されていたが、同年11月23日より親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの命を受けたオズヴァルト・ポールSS中将が親衛隊による接収の手続きを開始した。1943年2月7日には正式に接収され、イッター城は「名誉囚人 (Ehrenhäftlinge)」、すなわち知名度が高く、ドイツ側にとっての十分な利用価値が見込まれた囚人を収容する特別の収容所として指定された。同年4月25日までに捕虜収容所として改装され、4月28日には所長ゼバスティアン・ヴィンマーSS大尉が妻を連れて着任している。彼は非常に残忍な人物として、囚人だけではなく部下からの評判も悪かった。SSゾンダーコマンド・イッターとしてヴィンマーに与えられた戦力は、SS髑髏部隊員14名、女性補助員1名、ジャーマン・シェパード6頭であった。改装された城の周囲には、有刺鉄線や投光機が設置されていた。 1943年5月2日、最初の囚人としてエドゥアール・ダラディエ元首相、モーリス・ガムラン将軍、労働運動幹部レオン・ジュオーの3人が到着した。その後、ポール・レノー元首相(1943年5月12日到着)、ジャン・ボロトラ元スポーツ・教育長官(1943年5月12日到着)、ジュオーの秘書で愛人のオーギュスタ・ブルシュレン(1943年6月19日到着)、レノーの秘書で愛人のクリスティアーヌ・マビア(1943年7月2日到着)、アンリ・ジロー将軍の娘婿マルセル・グランジェ(1943年7月2日到着)、マキシム・ウェイガン将軍と妻マリ=ルネ=ジョセフィーヌ(1943年12月5日到着)、政治家ミシェル・クレマンソー(フランス語版)(1944年1月9日到着)、右翼団体指導者フランソワ・ド・ラロック(1944年1月9日)、シャルル・ド・ゴール将軍の姉マリー=アニエス・カイリューと夫アルフレッド(1945年4月13日到着)が加わり、イッター城に収容された名誉囚人は合計14人となった。イッター城に収容されている間、彼らは政治的な立場の違いや過去の軋轢からしばしば衝突したという。 その性質上、イッター城収容所の生活環境は非常に恵まれていた。城内には囚人が自由に利用できる300冊の蔵書があり、中庭は自由に歩きまわることが許されていた。許可を得れば監視付きながらイッター村の教会を訪れることができたし、必要と認められれば軍病院などの医療機関にかかることもできた。食料も豊富で、チェコ人の料理人アンドリアス・クロボットがこれを管理していた。また、レノーの部屋にはクロアチア出身の抵抗運動のメンバーで電気技師としてイッター城に勤務していた囚人ズヴォニミール・チュッコヴィッチ (Zvonimir Čučković) が看守から盗み出したラジオが隠されており、囚人たちはこれを用いてBBCなどの海外放送から情報を得ていた。 名誉囚人のほか、東欧系の女性囚人らがダッハウ収容所より雑役要員として派遣されていた。彼女らは腕に番号が刺青されていた為、「番号囚人」と呼ばれた。
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