アルミニウム原料と鉱山開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 02:09 UTC 版)
「伊豆珪石鉱山」の記事における「アルミニウム原料と鉱山開発」の解説
昭和期に入り、航空産業等の発達に伴って加工技術が進歩し、更にジュラルミン等の合金の普及によってアルミニウムの需要は増大していった。また航空機の発達と国際情勢の緊迫化により、軍需用のアルミニウム需要増が想定されるようになった。そのような情勢下、軍需上のアルミニウム需要増を見通した軍部は、国防上の見地からアルミニウム原料の国産化を強く求めるようになった。 軍部が想定していたアルミニウムの国産原料とは、明礬石、粘土の一種、礬土頁岩、リン酸礬土などであった。しかしこれらの国産原料によるアルミニウム製錬は、ボーキサイトを用いたバイヤー法によるものよりも技術的に困難で、経済的に採算が合わなかった。それでも1939年には日本電工が朝鮮産の明礬石を原料としたアルミナの生産を始め、続いて1935年に日満アルミニウムが満州産の礬土頁岩、1936年には住友化学がやはり朝鮮産の明礬石を原料としてアルミナの生産を開始した。 しかし1936年以降、欧米からの最新技術を導入してオランダ領東インド産のボーキサイトからアルミナが生産されるようになると、国産原料によるアルミナ製造はたちまちのうちに採算面で苦境に追い込まれ、1937年には日本電工、住友化学がボーキサイトによるバイヤー法に転向する。結局国産及び満州、中国産の明礬石、礬土頁岩、リン酸礬土を主原料としてアルミナ製造を続けたのは日満アルミニウム、そして後にアルミニウム製錬に参入した日東化学工業、朝鮮窒素、満洲軽金属であった。 国際関係の緊迫化、特に1937年の日中戦争開始後、軍需用のアルミニウム増産要求は更に強まっていき、商工省もアルミニウムの積極的な増産計画を立案する。このような中で改めてアルミニウム原料の国産化が課題とされた。1940年度から各企業の国産原料を用いたアルミナ製造研究に奨励金が交付されるようになった。また理化学研究所などの研究所で国産原料からのアルミナ製造研究が進められた。国際情勢が厳しくなる中で、1940年4月にギリシア産、1941年5月にはオランダ領東インド産のボーキサイトの輸入が中止され、ボーキサイトの輸入量が激減してその対策に追われることになった。そのような中で、1941年5月に佐藤謙三と前川益以は、明礬石の製錬によりアルミニウムと硫酸カリウムが製造されるため、アルミニウム資源の国産化と化学肥料の生産による食糧問題の解決を一挙に図ることができるとして、明礬石を原料としたアルミニウムと硫酸カリウムを製造する国策会社を設立すべきであると主張した。 しかし日本の第二次世界大戦参戦後、日本軍は1942年3月にボーキサイトの主要産地であったビンタン島を占領し、5月には日本向けのボーキサイト積み出しが始められた。そのため軍部、政府そして各会社のアルミニウム原料国産化への動きはいったんトーンダウンした。
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