アメリカ軍人・軍属の犯罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:50 UTC 版)
「コザ暴動」の記事における「アメリカ軍人・軍属の犯罪」の解説
アメリカ軍施政下の沖縄で、沖縄の人々は日本およびアメリカの憲法のどちらも適用されず、身分的にきわめて不安定な立場に置かれていた。 アメリカ軍人や軍属が犯した犯罪の捜査権・逮捕権・裁判権はアメリカ軍に委ねられており、加害者は非公開の軍法会議で陪審制による評決で裁かれたが、殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪であっても証拠不十分として無罪や微罪に処されたり、重罪が科されても加害者が米国へ転属して結果や詳細が不明となることも多く、沖縄の住人の被害者が被害を賠償されることはほとんどなかった。 琉球警察はアメリカ軍人や軍属の犯罪に捜査権を有さず、米民政府布令に定められた一定の犯罪でアメリカ軍憲兵(MP)が現場にいない場合のみ現行犯で逮捕できたが、加害者の身柄を速やかにMPに引き渡さなければならなかった。交通事故は現行犯逮捕可能な犯罪に含まれず、加害者が公務外の非番であってもMPが「外人事件報告引継書」にサインしない限り琉球警察は事件として捜査や逮捕できなかった。アメリカ軍人や軍属による重大事件や不当判決のたびに、琉球政府を筆頭に立法院、政党、各種団体などは強く抗議し、捜査権・逮捕権・裁判権の移管と被害賠償を強く求めたが改善されなかった。 事件当時の沖縄はベトナムからの帰還・一時休暇の兵士で溢れ、戦地で疲弊したアメリカ兵は基地外で酒、薬物、女に溺れた。沖縄のアメリカ軍人や軍属による犯罪は、年間500件未満だったが1958年から増加してベトナム派兵が本格化した1965年から1967年に1000件を超え、その後は減少したが暴動が発生した1970年は960件と急増、うち348件がコザ市で発生している(軍人・軍属家族らによる住民への犯罪行為は1966年から1969年の累計約四千六百件にのぼった)。内訳は凶悪犯143件、粗暴犯156件、器物毀棄罪212件で半数以上を占めたが、検挙者は436人、検挙率45.3パーセントで、同年の民間犯罪検挙率80パーセントを大幅に下回った。交通事故は年間1000件を超え、死傷者は422人であった。加害者が現行犯逮捕されずに基地内に逃げ込めば琉球警察は介入できず、MPも追跡捜査をせずに事件が迷宮入りする場合が多く、実際の不法行為は上記をはるかに上回る。 1952年12月以降、軍関係事件の損害賠償については外国人損害賠償法に基づき処理されてきたが、死亡事故の賠償金は平均で6,046ドル(当時のレートで216万円)で、請求額に対しては20%程度にすぎず、本土における一般的損害賠償事件の判決の例に比較して低い水準にあった。 多数の沖縄の人々は、戦後25年以上人権を侵害されても泣き寝入りを強いられ、日本国憲法下での保護を求めて「即時・無条件・全面返還」(基地撤去)を掲げる復帰協の運動にもつながった。
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