アフリカ系キューバ音楽からの回帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:03 UTC 版)
「アフリカのポピュラー音楽」の記事における「アフリカ系キューバ音楽からの回帰」の解説
キューバの音楽は、20世紀中頃からサハラ以南のアフリカで人気があった。いち早く、アフロポップのスタイルを取り入れたのはキューバの音楽である。アフリカ人にとって、クラーベがベースのキューバの音楽は親しみやすくエキゾチックに聞こえた。「エンサイクロペディア・オブ・アフリカ v.1」より 「1940年代より、セプテート・アバネーロやトリオ・マタモロスなどのアフリカ系キューバ人グループは、レオポルドビル(現在のキンシャサ)のラジオ局のエアプレイの結果、コンゴ地域で広範囲にわたる人気を確保した。レオポルドビルではクラブや録音スタジオ、コンサート会場が激増し、1940年代後半から1950年代までキューバの音楽の人気を駆り立てた。」 コンゴのバンドは歌詞も含めてキューバ人の楽曲をそのままカバーしていたが、すぐにフランス語で彼ら自身の作品を制作するようになった。コンゴ人はルンバと呼ばれる新しい音楽ジャンルを取り入れ、グアヘオの旋律をエレクトリック・ギターに適応させ、アフリカ地域の味を持たせた。ギター主体の音楽は、コンゴから徐々に広がっていった。そして、ますますそれぞれの地域の感性を持たせられた。結果的に、例えばスークースなど様々な地域の様々なジャンルの設立につながっていった。 キューバのポピュラー音楽は、アフリカのポピュラー音楽の多くのジャンルの開発において、重要な役割を担った。ジョン・ストーム・ロバーツ曰く「キューバとの繋がりにより、ニューヨーク・サルサ以外でも多様な文化を以前より得てきた。キューバとの関係かなり前から始まっており、少なくても20年前にはあった。そして徐々に吸収され、再アフリカ化されていった。」アフリカ系キューバ人のリズム・パターンは、アフリカ人によってアレンジされていった。 ハーモニーのパターンをアレンジしたことで、音の認識が著しく変更される。キューバ音楽の影響で、I、IV、V、IVのハーモニーは、アフリカ大陸全域のすべてのポップスで聞こえる。それらのコードは、西洋の音楽理論の基本的な教義に従って進行する。しかし、ゲルハルト・クービックは、アフリカのポピュラー音楽のコード進行は必ずしもそうではないと指摘している。「コンゴ(ザイール)のポピュラー音楽で C-F-G-F [I-IV-V-IV] というコード進行のサイクルは、西洋の音楽の階層的な進行と同じであるとは定義できない。」 アフリカを襲ったキューバ音楽の最大の波は、サルサだった。1974年にザイール(現在のコンゴ民主共和国)のキンシャサで行われたファニア・オールスターズのコンサートでは、80,000人も集まった。この模様は映像作品『Live in Africa』として発売された。モハメド・アリとジョージ・フォアマンのヘビー級タイトルマッチとともに音楽祭が開催されザイール人が大量に集まった。サルサは、この時点ではすでにアフリカ諸国、特にセネガンビアとマリでは認識されていた。キューバの音楽は1950年代から1960年代までのセネガルの夜の街では人気があった。セネガル人バンドのオーケストラ・バオバブは、ウォロフ族の楽器と歌詞の追加を除くと、コンガとティンバレスで基本的にはサルサのスタイルで演奏する。 ライス・ワックサー曰く「アフリカのサルサは、それほどアフリカ回帰していないが、いわゆる第三世界の両地域間の文化が複雑に混ざっている。」1990年代中旬から、アフリカのアーティストの活動はスーパーグループのアフリカンドを通して非常に活発で、例えばリカルド・レンヴォやイスマエル・ロー、サリフ・ケイタなどはニューヨークのミュージシャンと交流している。アフリカ人アーティストがサルサを録音して彼らの地域の音を加えることは、今日もまだ一般的である。
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