アフリカ系住民の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 11:03 UTC 版)
「ジョージタウン (ワシントンD.C.)」の記事における「アフリカ系住民の歴史」の解説
アフリカ系住民の人口が多かった1850年代には、自由市民と奴隷が混在し、特に建築業界では労働力として奴隷を多用した上、ほど近いメリーランド州とバージニア州の特産品であるタバコ栽培も労働集約型であった。1760年、ジョージタウンのOストリートに奴隷取引場を開いた John Beattie は、ウィスコンシン・アベニュー沿いに支場をいくつか設ける。「囲い」pen と呼ばれたそれらの施設は同市内に他にMストリートとウィスコンシン・アベニュー交差点近くに〔マキャンドレスのタバーン〕という屋号の施設があった。特別区内の取引は1850年に禁じられるまで続き(1850年協定の一環)、議会が特別区における奴隷所有権を完全に廃止した1862年4月16日にちなみ、4月16日は記念日になった(Emancipation Day)。 前出の通り、南北戦争終結とともにジョージタウンに流入するアフリカ系住民が急増した。18世紀末から19世紀初頭には、人口比でかなりの重みを得ており、1800年の国勢調査によるとジョージタウンの総人口5120人に占めるアフリカ系奴隷1449人、アフリカ系自由市民227人である。アフリカ系住民の歴史が現代に遺したものとして、ワシントン特別区全域で最初にできたアフリカ系住民のキリスト教会があり、マウントザイオンメソジスト教会( Mount Zion United Methodist Church)という。アフリカ系自由市民の信徒は教会堂の開設までダンバートン・メソジスト教会 Dumbarton Methodist Church に集まり、室内の席に着くことを認められず、蒸し暑いベランダに寿司詰めになって礼拝した。教会堂は当初、27番街のレンガ造りの狭い礼拝所だったものの1880年代に火事で焼失、その後、現在の場所に再建された。霊園も用意され(Mount Zion Cemetery)、古くからワシントン地域に暮らすアフリカ系住民に墓所を無料で提供した。「南北戦争前のジョージタウンの人口は白人6798名、黒人自由市民1358名、奴隷577名、総人口は1万7300名に増えてもその半数は貧困にあえぐ黒人が占めた」という。
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