アフリカ系アメリカ人の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 16:20 UTC 版)
「イングルウッド (カリフォルニア州)」の記事における「アフリカ系アメリカ人の影響」の解説
グラディス・ワッディンガムは、「イングルウッドにはかつて黒人が住んでいなかった」が、1960年までに「市の東部境界に多く住むようになった。1960年の国勢調査ではイングルウッドの人口63,390人の中に、黒人はわずか29人しかいなかった。市の学校に通っている黒人の子供は一人もいなかった。不動産屋は黒人に家を見せることを拒んだ。夜の通りから黒人を締め出すという噂があった。イングルウッドは以前の規制という歴史があったために、主要な標的になった。」と書いた。「公平な住居やスクールバスが1964年の大きな問題だった。学校はたとえどんなに小さな事でも人種問題を扱うことの準備ができていなかった。黒人達が白人と同じようにバスに乗れるように抗議したので、大人達は多くの過熱された地域社会集会を開いた。」1969年、「モーニングサイド・ネイバーズ」という組織が人種差別の撤廃が進むことを期待して、その名前を「イングルウッド・ネイバーズ」に変えた。 イングルウッドにある18の学校で初めての黒人校長は1971年にラ・ティヘラ小学校長に就任したピーター・バトラーだった。ワッディンガムは「1971年の嵐のような人種問題集会」では「クロージャー集会所に溢れた不動産業者」からの人種間問題委員会は「ゲシュタポ」のように行動しているという告発があった、と記した。 1972年カーティス・タッカー・シニアが黒人最初の市政委員会委員に指名された。この年アフリカ系アメリカ人作曲家レロイ・ハートがイングルウッド交響楽団の指揮を執り、その後20年間も続けた。1980年には、エドワード・ビンセントがイングルウッドで初めての黒人市長になった。1980年代にイングルウッドはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日を休日と宣言することではカリフォルニア州で最初の都市になった。 2000年の国勢調査で、黒人人口は53.060人となり市人口の47%となり、ヒスパニック系も51,289人で46%となったが、2007年の推計では、黒人の比率は41%(48,252人)にまで低下し、ヒスパニック系が52.5%(61,847人)と伸びていた。白人の人口比率は19%(21,505人)から17.7%(20,853人)に低下した。
※この「アフリカ系アメリカ人の影響」の解説は、「イングルウッド (カリフォルニア州)」の解説の一部です。
「アフリカ系アメリカ人の影響」を含む「イングルウッド (カリフォルニア州)」の記事については、「イングルウッド (カリフォルニア州)」の概要を参照ください。
- アフリカ系アメリカ人の影響のページへのリンク