ゆるやかなイスラーム化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:08 UTC 版)
「ギーラーン州」の記事における「ゆるやかなイスラーム化」の解説
ギーラーンのイスラーム化は非常にゆるやかに進んだ。これはイランの他地域と異なり、イスラーム初期のアラブの征服において、アラブ軍の占領を受けなかったことが第一、そしてその後もイラン高原方面の巨大な政治勢力に対し、貢納は行うものの地方政権が長いあいだ相対的な独立を保ち続けたことが第二の理由である。もちろん、これを可能にしたのは後背のアルボルズ山脈がイラン高原とのあいだに聳え、一方でカスピ海にのぞむ開かれた地形と豊かな自然をもっていたからである。その点でカスピ海にそって東のマーザンダラーン(タバリスターン)地方も類似の歴史をもち、イラン語のカスピ海方言に属する言葉を発展させたようにイラン史とは独自の地域史を形成してきたといえる。さらにギーラーンのシャー・ルード川上流渓谷地域をダイラム地方と呼ぶが、この地域のダイラム人の活躍によりダイラム地域概念が拡大し、実際にはカスピ海南岸をあわせて広義のダイラム地方ということがある。 この地域のイスラーム化がはじまるのは9世紀終わりから10世紀はじめにかけてである。このときギーラーンの西部ではスンナ派ハンバル法学派が弘通をおこない、東部ではザイド派が教線を延ばしたことから、この棲み分けがギーラーンの東西を文化的政治的にのちのちまで規定することになる。東のギーラーンはザイド派としてダイラム人とともにブワイフ朝の勃興につながる10世紀「ダイラムの拡大」に寄与した。このころのギーラーンは諸部族の連合体であった。イスラーム化の深化などにより、外部からズィヤール朝、ブワイフ朝、セルジューク朝などが影響力を振るうが、恒常的な税の賦課を行うことはできなかった。東ギーラーンはカスピ海南岸部在地(当初はタバリスターン)のザイド派のアリー朝を支えた。12世紀にはアリー朝がブワイフ朝の故地ラーヒージャーン(英語版)(今日の東ギーラーンの中心地)に遷都している。1306-7年、イル・ハン朝のオルジェイトゥがギーラーンに大規模な軍事侵攻を行うが、多大な損害を出し、宗主権を認めるのみで地方王朝による半独立的な部族社会が存続した。 西ギーラーンでは13世紀中葉以降シャーフィイー派のアスパーフバド家(英語版、ペルシア語版)が、東ギーラーンではマルアシー家(英語版)がそれぞれ勢力を伸ばす。アク・コユンルーやサファヴィー朝を巻き込みつつ半独立状態が続き、サファヴィー朝がイスマーイール1世没後の内乱にはいると、ギーラーンの支配者たちはサファヴィー朝政治に関与を深めてゆく。この時期、西隣のアゼルバイジャン地方はオスマン朝の統治下にあり、この地方はオスマン朝とサファヴィー朝の戦いの影響を直接に受ける場所にあった。さらにウズベクのシャイバーン朝がホラーサーンからさらにマーザンダラーンをうかがうなど、カスピ海にオスマン帝国海軍の進出を許しかねない状況となる。ギーラーンの支配者はこのような状況を利用して巧みに半独立を維持したが、オスマン朝がハプスブルク朝と開戦しサファヴィー朝と和議を結ぶと、サファヴィー朝側はアッバース1世の中央集権化への力強い意志により全土の制圧に乗り出した。ギーラーンはオスマン朝に来援を乞うが、これによってかえってシャーの怒りを買い、1592年に征服された。ついに中央政府の任ずる総督によって統治されるイランの一部になったのである。
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