もっと後の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 16:26 UTC 版)
ジェローム・クラーク(Jerome Clark)はつぎのように書いている、「1887年より後の飛行船の複数の波の、好奇心をそそる1つの特徴は、それぞれ歴史的記憶から引き離されたことであった。たとえば、1909年には、大量の世界的な目撃と、付随する議論と研究があったのに、同時代の複数の記述は、わずか10年前の非常に大きく公表された複数の出来事をほのめかしていない。 クラークは、つぎのように書いている、「19世紀後半の飛行船の恐怖にかんする真実をあばこうとする」あらゆる試みは「不幸な現実に直面する:新聞報道は信頼し得なかった。どの独立した調査者(「飛行船学者ら」('airshipologists'))も、目撃者とされる者らと直接、話したり、その証言を証明しあるいはその事実誤認を証明しようとしたりしなかった。たった1つを例外として、どの目撃者も1950年代にさえインタヴューされなかったし、おそらくなかには1950年代にはまだ生存者もいたであろう。」("uncover the truth about the late 19th-century airship scare comes up against some unhappy realities:newspaper coverage was unreliable;no independent investigators ('airshipologists') spoke directly with alleged witnesses or attempted to verify or debunk their testimony;and, with a single unsatisfactory exception, no eyewitness was ever interviewed even in the 1950s, when some were presumably still living.") クラークが引証している「たった1つの満足のいかない例外」("single unsatisfactory exception")は、1952年にエドワード・J・ラッペルトのインタヴューを受けた、ある『サンフランシスコ・クロニクル』の元被雇用者である。ラッペルトは、つぎのように書いた、すなわちその男性は、「原稿運び係であった...事件を思い出したが、時間のせいで詳細は消え去った。彼はわたしに、編集者である自分と新聞のスタッフは、彼のいわゆる「船」('the ship')を見た、と実際に語った。彼の話は、たとえ50年、経っていても、新聞のだれも自分らが見たものを語らないと彼が言ったときにわたしが聞いた他のものの気味があった。彼らは、自分たちが「気が狂っている」('crazy')とは思われたくなかった」("had been a copy boy…and remembered the incident, but time had cancelled out the details.He did tell me that he, the editor of the paper, and the news staff had seen 'the ship', as he referred to the UFO.His story, even though it was fifty-six years old, smacked of others I'd heard when he said that no one at the newspaper ever told anyone what they had seen;they didn't want people to think they were 'crazy'.") ジェーコブズはつぎのように注意している、「飛行船という考えに対するたいていの反対論は、目撃者らは自分らが見たと主張する物を見なかったと想定する個人らから来た。これは、1896年 - 1897年の現象と、1947年に始まる現代の未確認飛行物体現象とをむすぶ決定的な環である。これはまた、未確認飛行物体がユニークな現象を構成するか否かをめぐる議論の中心をなしていた。」("Most arguments against the airship idea came from individuals who assumed that the witnesses did not see what they claimed to see.This is the crucial link between the 1896–97 phenomenon and the modern unidentified flying object phenomenon beginning in 1947.It also was central to the debate over whether unidentified flying objects constituted a unique phenomenon.") 2009年に、アメリカの作家J・アラン・ダネレック(J. Allan Danelek)は書籍『The Great Airship of 1897』を書いた。その中で彼は、謎の飛行船は、のちのより大きな乗客を運搬する一連の飛行船の試験機として飛行機の試作品を建造するために、ことによるとサンフランシスコからの裕福な投資者から資金提供を受けたかもしれない、未知の個人の作品である、という論を唱えた。作品の中で、ダネレックは、1896年に入手可能な材料と技術を使用して船が建造されたかもしれないその方法(理論的な線画(line drawings)と技術的な詳細を含めて)を説明している。ダネレックは、船は、特許侵害からデザインを守るためにのみならず、失敗に備えて投資者らを守るためにもまた、ひそかに建造された、と提案した。彼は、これらの飛行が、初めはカリフォルニア上空で、そしてのちになってようやくミッドウェスト上空で見られたことに注意して、発明者は、西から東に移動しながら、後方支援のために主要鉄道線をたどりながら、一連の試験飛行をおこなっていた、時代から新聞記事の - すべてではないにしても - 多くの基礎を形成したのはこれらの実験飛行であった、と推測している。デネレックはまた、これらの報告が1897年4月なかばに突然、終わったことに注意し、船は、災害に遭ったかもしれず、冒険を事実上、終え、目撃に神話の国に落ちることを許している、と提案している。
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