その他の主な事象
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池雪小学校の創設、移転 1878年(明治11年)10月、東京府荏原郡の池上村、雪ヶ谷村、道々橋村、石川村の4ヶ村が合同で、道々橋村内に池雪小学校を設立した。池雪小学校は同じ年の6月に開校した池上小学校とともにこの地方でもっとも歴史のある小学校である。そして後の1905年(明治37年)に大字雪ヶ谷地内の現在地に移転した。 池上線の開通 1923年(大正12年)、雪ヶ谷の北部に池上線が開通し、雪ヶ谷駅(のちの雪が谷大塚駅)、石川駅(翌年に石川台駅と改称)と洗足池駅とが出来た。このうち、洗足池駅は開通当時は雪ヶ谷の域外であったが、のちの町の境界の変更によって現在は域内となっている。 品鶴線(貨物専用線)の開通 1929年(昭和4年)、雪ヶ谷南部を貫いて貨物専用線の品鶴線が開通した。この線は1980年(昭和55年)に旅客線化されて横須賀線電車が走るようになり、さらに後に東海道新幹線がその用地を用いて建設されたが、この地内に旅客駅が設置されることはなかった。
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その他の主な事象
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1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設 1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加に伴って、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。 1898年(明治31年) - 玉川上水新水路の完成 玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便を囲った。当時は新水路上に橋が設置されておらず、南北の行き来は3つ設置されたトンネル(本村隧道・本町隧道・笹塚隧道)を通してのみ可能であった。 1914年(大正3年) - 京王線の開通 京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)「幡代小学校前」、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。 1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止 1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。 1945年(昭和20年) - 京王線「幡代」駅廃止 1978年(昭和53年) - 京王新線開通。「初台」駅と「幡ヶ谷」駅が新線に移転
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