神仏習合
神仏習合とは、神仏習合の意味
神仏習合とは、日本において「神道」と「仏教」とが調和的に折衷され融合・同化・一体化された信仰のこと、および、その(神仏に対する)信仰を一体化する考え方のことである。わかりやすく言えば、神仏習合は「神と仏は一体である」とする宗教思想である。具体的には、神社の境内に仏堂が建てられたり、仏教寺院に鎮守社・境内社が建てられたり、神前で読経したり、祝詞奏上と読経が共に営まれたり、神体を仏像が共に祀られたりする。神仏習合の語の由来・語源
神仏習合の成立は、上代もしくはそれ以前にさかのぼる。奈良時代には各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神仏習合が実践されていた。ただし、厳密な意味での「神仏習合」と定義できる流れは平安時代以降とみなす見解もある。「神仏習合」という言葉がいつから使われ始めたかは定かでない。なお「習合」は「(異なる教義などを)折衷すること」を意味する語。神仏習合は約1000年あまり全国的に浸透していたが、明治政府のもとで「神仏分離」ならびに「廃仏毀釈」が推進された。神道が国教化され、仏教は排斥されたのである。とはいえ、今でも大多数の人々が神社と寺院の両方に参詣して何ら違和感を持たないくらい、神仏習合の考え方が人々の中に残っている。
神仏習合の語の使い方(用法)、例文
- 1868年の神仏分離令により、神仏習合は禁止された。
- 日光東照宮では神格化された徳川家康が祀られているが、境内には薬師如来を祀る薬師堂もあることから、神仏習合の例として有名である。
- 日本では神仏習合が浸透しており、神社で結婚式を挙げるのも寺で葬式を行うのも一般的だ。なんなら教会式やクリスマスも享受している。
神仏習合の類語と使い分け
神仏習合の類語もしくは異称として「神仏混淆」が挙げられる。混淆(混交)は「異なるものが入り混じること」を意味する。「習合」には折衷のニュアンスがあり、「混淆」には無秩序・ゴチャ混ぜのニュアンスがある。そのため「神仏習合」が成立する以前の過渡期をあえて「神仏混淆」と呼ぶ場合がある。神仏習合に近い意味の言葉や考え方として「本地垂迹(説)」も挙げられる。本地垂迹説は、神仏習合の考え方の一部であり根幹である。「本地」は神の元となった仏・菩薩のこと、「垂迹」は仏・菩薩が神の姿で現れることを意味する。日本における神は、民を救うために仏や菩薩が姿を変えたものだという考えである。
神と仏を同一視する考え方は「神仏同体説」と呼ばれ、本地垂迹説のほかに「神本仏迹説」もある。本地垂迹説とは反対に、神本仏迹説では、神が仏の姿をとったと解釈される。本地垂迹説は仏教側から、神本仏迹説は神道側から提唱された。
神仏習合の英語
神仏習合は英語では syncretism of Shinto and Buddhism もしくは syncretism of kami and buddhas のように表現される。syncretism(シンクレティズム)は宗教学の用語で、異なる宗教ないし宗教的見解を統合させる試みや、統合されている状態を指す。キリスト教のプロテスタントとカトリック、イスラームと仏教などの統合も syncretism という。神仏習合は日本宗教史に固有の概念である、という意味を込めて Shinbutsu-shugo と固有名詞として扱う場合も多い。しんぶつ‐しゅうごう〔‐シフガフ〕【神仏習合】
神仏習合 (しんぶつしゅうごう)
しんぶつしゅうごうと同じ種類の言葉
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