あだ名
『宇治拾遺物語』巻11-1 重明親王の息子・左京大夫源邦正は顔色が青かったため、皆が「青常の君」と呼んだ。村上天皇(=源邦正の従弟)がこれを咎め、皆はあだ名で呼ぶことを慎(つつし)んだが、堀川中将兼通が、うっかり「青常丸」と言ってしまった。このため、堀川中将は皆に御馳走を出して償うことになった。当日、堀川中将と随身は青色の装束を着て、青磁の皿や瓶に青色の食べ物を盛って現れたので、皆大笑いした。
『坊っちゃん』(夏目漱石) 「おれ(坊っちゃん)」は物理学校を卒業して、四国の中学校の数学教師になった。教員たちと初対面の挨拶をしながら、「おれ」はみんなにあだ名をつけてやった。校長は薄髯で色黒、眼の大きな狸のような男だから「狸」、教頭はフランネルの赤いシャツを着ているから「赤シャツ」、英語の古賀はうらなりの唐茄子を食ったみたいに顔色が蒼く、ふくれているから「うらなり」、数学の堀田は叡山の悪僧というべき毬栗坊主だから「山嵐」、画学の吉川は芸人風だから「野だいこ」だ。
『かげろふ日記』中巻・天禄2年6月・12月 夫兼家との仲がうまくいかず、私(藤原道綱母)は「尼になってしまおう」と思って、鳴滝の山寺にこもった。しかし兼家が迎えに来たので、尼にならずに都へ帰った。兼家は私に、「あまがへる(「尼帰る」と「雨蛙」を掛ける)」というあだ名をつけた。兼家が「来るよ」と約束したのに来なかった時、私は「おほばこの神の助けやなかりけむちぎりしことを思ひかへるは(おおばこの神の助けはなかった。約束を変えるなんて)」と詠んだ〔*おおばこの葉で蛙は元気になるという〕→〔草〕3の『野草雑記』(柳田国男)。
『なよ竹物語』(別称『鳴門中将物語』) 後嵯峨帝が某少将の妻を恋慕して、時々、宮中に召した(*→〔横恋慕〕3)。それまで某少将は隠者同然の身で、世間から忘れられていたが、帝は彼を近習の1人とし、ほどなく中将に昇進させた。口さがない人々は、彼に「鳴門の中将」という異名をつけた。鳴門はわかめの産地で、良き「め」(わかめの「め」と女の「め」をかける)ののぼる所だからである。
『大菩薩峠』(中里介山)第15巻「慢心和尚の巻」 恵林寺の和尚は、人から話を聞いていて、それが終わると非常に丁寧なお辞儀をして、「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」と言った。領主や大名に招かれて御馳走になった時も、諸仏菩薩を拝んだ後も、同様のことを言った。そこから和尚は、「慢心和尚」と呼ばれるようになった。「慢心してはいけません」というのは、人に向かって言うのではなく、自分に向かって言うのであるらしかった。
『眉山』(太宰治) 若松屋の女中トシちゃんは、「僕」が連れて行く客=すべて小説家、と思い込んでいた。ピアニストの川上六郎氏を案内した時、トシちゃんは「川上」という姓を聞いて、「ああ、わかった。川上眉山」と言った。「僕」たちはトシちゃんの無智にあきれ、かげで彼女に「眉山」というあだ名をつけた。若松屋を「眉山軒」などと呼ぶ人もいた〔*そのうちトシちゃんは、重症の腎臓結核であることがわかり、店をやめた〕。
『現代民話考』(松谷みよ子)7「学校ほか」第1章「笑い」の1 戦時中の中学校では、生徒が教員室に入る時、大声で「○○先生の所に××の用で参りました」と言わねばならなかった。ところが生徒仲間では、日ごろ先生をあだ名で呼んでいるので、咄嗟に本名が出てこない。しかたなく、また大声で「帰ります」と言って出て来た。こんな友人が何人もいた(東京都)。
『日曜日』(三島由紀夫) 役所勤めの幸男と秀子は、ともに20歳の恋人どうしである。月曜から土曜まで勤勉に働き、日曜日は2人のデートの日だ。山や海、遊園地や映画など、いつも3ヵ月先まで予定が立ててあり、2人には「日曜日」というあだ名がついた。ところが、ある日曜日、混雑したプラットホームから落ちて、2人は電車に轢かれてしまった。同僚たちは空っぽの2つの椅子を見て、「ごらん! 日曜日は死んでしまった」とつぶやいた。
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