『議会立法機構』執筆(1854年)
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「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「『議会立法機構』執筆(1854年)」の解説
1848年から1849年にかけての庶民院公務委員会は最終的にはショー=ルフェーブルが提出した提言の一部を容れ、穏健な改革案を通した。改革案が1853年に発効すると、メイは再び議事規則改革を目指すようになり、1854年1月に『エディンバラ・レビュー(英語版)』に論文「議会立法機構」(原題: "The Machinery of Parliamentary Legislation")を寄稿した。 議会における先例の重要性を説いたメイの言葉 庶民院の議事のほとんどは日誌の第1巻で先例がみられる。その文言は古風であるものの、継続して参照されたため、内戦や革命を経ても無傷のままである。この古き伝統を守るべきという矜持が、現代の条例や規則よりも伝統が敬意をもって従われる理由である。(中略)イギリスの議会制度がフランス、ベルギー、アメリカなどで広く採用されたのは制度の優秀さとその名声による。 “ ” 『議会立法機構』(1881年再出版)より試訳 メイはこの論文で、議会における先例の重要性を説きつつ、「腐敗選挙区を廃止する、穀物への徴税を廃止する、羊盗り犯を絞首刑に処さないといった改革が全て『栄誉ある憲法への侵害』」として「聖地扱い」されるという危険性も指摘した。メイはまた、議会慣例が「古く、少なくとも3世紀もの間遵守された」ことをイギリスの憲法の特徴とした。この主張は晩年になっても変わることはなく、1880年代の陸奥宗光との対談(後述)でも見られた。 先例を重んじる姿勢は「議会立法機構」の執筆スタイルそのものにも表れており、弁論終結動議(closure motion)の提言では2世紀以上前の1604年を先例引用した論述となっている。当時のメイは図書館司書のヴァードンと共作で、1547年から1714年までの庶民院日誌索引を再作成・完成させており、1604年の先例引用はこの日誌の期間と符合する。 さらにはこの日誌索引再作成の経験が、『アースキン・メイ』第2版(1851年)と第3版(1855年)の改訂にも影響を与えたとされる。ヴァードンは1857年に1837年から1852年までの日誌索引を出版するとき、『アースキン・メイ』を褒め称え、改めて索引を作成する必要がなくなったとほのめかすほどであった。 メイが「議会立法機構」で論じた提言は多岐に渡るが、実現したのはその一部のみである。議長が職務を執行できない場合に歳入委員会委員長(英語版)が副議長として議長職務にあたるという提言は1855年副議長法(Deputy Speaker Act 1855)で受け入れられたが、1854年の庶民院業務特別委員会(Select Committee on the Business of the House)は保守党(旧トーリー党)多数であり、結局改革は急迫なもの(例としては、貴族院からのメッセージを庶民院に届ける業務を含む官職が廃止される予定だったため、秘書官がその業務を受け継ぐという提言が受け入れられた)を除いてほとんど進まなかった。 『議会立法機構』はメイの晩年の1881年になって小冊子の装丁で再出版されているが、メイは再出版にあたって筆者序文を寄せ、「1854年という大昔に書いた記事を再出版するという提案は喜ばしいが、(記事が)今の状況にも適用できるか疑わざるを得なかった。しかし、それをもう一度読むと、有効な立法への障礙がそれほど残っていることと、議事規則という古い制度の欠点を補い、濫用を防ぐ措置のそれほど行われていないことに驚いた」と振り返った。
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