『議会公務を促進するための所見と提言』執筆(1849年)
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「アースキン・メイ (初代ファーンバラ男爵)」の記事における「『議会公務を促進するための所見と提言』執筆(1849年)」の解説
本書は、議事規則改革を唱えた小冊子(原題: "Remarks and Suggestions with a View to Facilitate the Dispatch of Public Business in Parliament"、ロンドン、1849年、8voパンフレット)である。その執筆背景としては、1847年から1848年の会期の長さがある。この会期は1847年11月18日に開会し、1848年9月5日にようやく閉会したが、293日にわたる会期は記録である270日(1802年 - 1803年の会期)を大幅に更新した。 1847年から1848年の会期は、ホイッグ党首ジョン・ラッセル卿率いる第1次ラッセル内閣(英語版)の最中にあり、ラッセルは1846年に首相に就任した後1847年工場法(英語版)(通称「十時間労働法」)、1848年公衆衛生法(英語版)など改革法案を次々と打ち出し、ラッセルと連携していたピール派から「急行列車の速さ」と形容されたが、実際は内閣が弱体だったため法案成立が遅く、1847年から1848年の会期では法案200件に対し採決が255回と多く(前年と比べ、法案数は22%増、採決数は50%増)、会期中に会議が行われた1,407.5時間のうち136.25時間は0時以降だった。メイはこの状況においても立法府の目的が果たされたとの見解を示しつつも、多くの「時間、エネルギー、健康を浪費」して得た結果であると付け加えた。 議会弁論の冗長化を数字として表す一例としては演説回数の統計があり、1810年に1,194回行われた演説が1847年には5,332回と3.4倍増であった。演説回数が増えた理由として、メイは選挙の自由化により大衆が代議士の活動状況に注目するようになったことを挙げた。その前年には第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーが貴族院で「選挙区が代表をさらに入念に見守るようになった」ため「議員が選挙区の注目を引くために演説回数を増やした」と指摘しており、メイと見解が一致した。 こうした情勢のなか、庶民院は公務委員会(Committee on Public Business)を設立して議事規則の改革を検討、メイも敬愛する議長ショー=ルフェーブルに提言し、ショー=ルフェーブルは委員会でメイの提言の一部を提出した。メイは改革の勢いが衰えないうちに小冊子『議会公務を促進するための所見と提言』を出版し、無関係な発言を制限する、採決数を減らす、米国の「1時間ルール」(1時間を超える長演説を禁止)の導入、フランスの「弁論終了動議」の導入といった方策について意見を述べた。メイは「議事規則をめぐっては(時として露骨なまでに)ホイッグ党支持」であったとされ、メイの議事規則に関する「提言の多くが徹底的であるが、全般的には明らかな濫用を防ぐための改正を好み、古い原則を捨てることには渋った」と言われる。
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