『吾妻鏡』・『曽我物語』
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文献上の初出は『吾妻鏡』文治元年(1185年)2月16日。源頼朝が「藍沢原」の地で、源範頼や北条義時らへ平氏攻撃に一致協力するよう書き送ったと記録されている。 十六日。甲午。(中略)今日武衛歴二覧山沢一之間。於二藍沢原一。付二参州廻季重一被遣二御書一。又被下二御書於北条小四郎殿。斎院次官。比企藤内。同藤四郎等一。是征二平家一之間。各可二同心一由也。 — 『吾妻鏡』巻四、文治元年2月16日条、国立国会図書館デジタルコレクション『吾妻鏡』第1、コマ番号95 (現代語訳)2月16日。今日、源頼朝(武衛=兵衛府)は各地の山野・河川を視察してまわった。その途中、藍沢原で、鎌倉から廻送されてきた源範頼(参州=三河守)の書状を見て、自ら付け足しを書いた。また、別の書状をしたため、北条義時(小四郎)・中原親能(斎院次官)・比企朝宗(藤内)・比企能員(藤四郎)に差し出した。手紙の内容は、平家を征伐するまで皆、心を一つにして協力するべし、との内容だった。 藍沢原は優れた猟場として人気があり、しばしば「藍沢の屋形」と呼ばれる移動式の狩猟用基地を設営して巻狩を楽しんだことなどが、鎌倉時代の様々な文書に記録されている。 建久4年(1193年)5月には、源頼朝率いる御家人団がこの地で巻狩を行ったことが『吾妻鏡』『曽我物語』などに記される(『吾妻鏡』5月8日条「将軍家、富士野・藍沢の夏狩りを覧給わんがため、駿河国へ赴かしめ給ふ」、5月15日条「藍沢の御狩り、事終わって富士野の御旅館に入御す。」など。)。『曽我物語』では、頼朝一行を追う曽我兄弟が、小田原から西へ足柄峠を越えて「相沢」を目指すか、南の箱根山を越えていくかで意見が分かれる。 二人の殿原は田村大道に打臨みつつ、鎌倉殿は合沢の狩倉へ入らせ給ひぬと聞えければ、十郎云ひけるは、「足柄山を超えて、今一日も疾く行かむ」と云へば、五郎は、「筥根路へ懸らむ」と云ふ。 — 『曽我物語』兄弟、筥根路に向かう、(東洋文庫)『真名本 曽我物語 2』p71、平凡社、1988年 (現代語訳)曽我兄弟の二人は、鎌倉街道に着いた。源頼朝(鎌倉殿)は合沢の狩猟場に入ったという情報が入った。兄の曾我祐成(十郎)は、「(西へ向かい)足柄山(足柄峠)を越えて急行しよう」と主張した。弟の曾我時致(五郎)は、「(南へ向かい)箱根山を越えて行こう」と主張した。 結局、曽我兄弟は幼い頃に世話になった箱根権現社の別当(僧)に面会するため、箱根経由の道を選ぶ。その間に源頼朝は藍沢原での巻狩を終え、次の狩猟地である富士野へ移動する。兄弟は箱根を下った三島でその報せを聞き、富士野へ向かう。そして富士野で曾我兄弟の仇討ちが起きる。富士の巻狩りも参照。 正治2年(1200年)閏2月8日には源頼家が(『吾妻鏡』)、嘉禎3年(1237年)7月25日、仁治2年(1241年)9月14日にも、北条経時らが巻狩を行ったと伝わる(『吾妻鏡』・『古今著聞集』)。 京都から鎌倉へ下向する者にとっては、藍沢原は東国に入る前の最後の平地だった。承久の乱(1221年)では、後鳥羽上皇の重臣として鎌倉幕府への反抗を主導した藤原宗行や藤原光親らが捕縛され、鎌倉に護送される途上の承久3年(1221年)7月14日に「藍沢原」で処刑された(『吾妻鏡』承久3年7月14日条)。御殿場市新橋付近がその地であると伝わる。
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