『吾妻鏡』における若彦路と道筋とは? わかりやすく解説

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『吾妻鏡』における若彦路と道筋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/04 02:13 UTC 版)

若彦路」の記事における「『吾妻鏡』における若彦路と道筋」の解説

史料上の初見『吾妻鏡』治承4年1180年10月13日条で、甲斐源氏挙兵際した軍事行動において登場する十三日壬辰、(中略)又甲斐国源氏北条殿父子駿河国今日暮兮止宿大石駅云々、戌刻、駿河目代長田入道之計、廻富士野来襲之由有其告、仍相遭途中、可遂合戦之旨群議武田太郎信義次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光等、越富士北麓若彦路、爰加藤太光員・同藤次景廉石橋合戦以後、逃去于甲斐国方、而今相具此人々、到駿州云々、 — 『吾妻鏡』 『吾妻鏡』拠れば治承4年4月後白河法皇皇子以仁王平家一族追討諸国源氏呼びかけ治承・寿永の乱発生する同年8月には伊豆国源頼朝挙兵し甲斐源氏の一族同時期に挙兵している。『吾妻鏡』では、頼朝9月20日甲斐源氏の一族対し黄瀬川静岡県沼津市)へ参陣命令下し、「若彦路」が登場する10月13日挟んで10月18日黄瀬川頼朝参会し平家勢との富士川の戦い発生したとしている。一方で甲斐源氏の一族この段階では頼朝意向従わず独自の判断行動していた点が指摘され頼朝行程からも無理がある点が指摘される『吾妻鏡』治承4年10月13日条では、同日朝に武田信義甲斐源氏の一族北条時政義時駿河国向かい暮れ方大石駅宿している。さらに駿河目代軍勢富士野廻って襲来すると、「富士北麓若彦路」を越えたとされている。「大石駅」は山梨県南都留郡富士河口湖町大石比定する説が主流となっている。富士河口湖町大石河口湖北岸所在し、西は本栖方面、東は御坂路に近い。 一方で大石寺所在する静岡県富士宮市上条比定する説もあるが、海老沼真治は甲斐源氏一行明け方甲府盆地発しその日夜に宿所とするには距離が遠すぎる点や、戦国時代中道往還御坂路甲斐路)における一日軍勢移動記録から、富士河口湖町大石比定する説を妥当としている。さらに、『吾妻鏡』治承4年10月23日条の末尾に「至駿州」とあることから、「大石駅」は駿河国内に所在していなかった点を指摘している。

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