『吾妻鏡』における九足の記事
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「異馬」の記事における「『吾妻鏡』における九足の記事」の解説
九足の初見は、『吾妻鏡』の建久4年(1193年)7月24日条、横山時広(嫡男に横山時兼)と言う武士が一匹の異馬を引いて、将軍頼朝の前に参じたところから始まる。この馬は足が9本あり、前足が5本、後足が4本とされる。特に名付けられておらず、『吾妻鑑』では一貫して、「九足」、「異馬」と呼称している。時広の話によれば、5月に所領の淡路国分寺にて発見したと伝えている。「本朝一匹の九足」と記されている事から、突然変異体の多足馬の記述(現存書物の記録)としては、日本最古と見られる。将軍家はこの九足を陸奥国外の浜に放つように命じた為、東北へ移された。 次に記述が見られるのは、翌年の建久5年(1194年)6月10日条で、奥州の道中で、伊佐氏の家人に射殺されてしまい、将軍家にその話が発覚したと記されている。この記述からも多足でも歩行はできたものと見られるが、9本全ての足を地につけて歩いていたかは記述されていない(ぶら下がった状態の未成熟の足の可能性もある)。また、結合双生児の類とも考えられる。
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