「黒い雨」研究
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1984年(昭和59年)の退職の直前、科学雑誌『サイエンス』に掲載されたカール・セーガンら5人の科学者による論文「“核の冬”-多重核爆発と全球的影響」の研究が、自身が専門にしてきた数値予報や大気大循環の研究で用いる数値シミュレーションと同じ手法で行われていたことが、増田がその後、核の冬問題に大きな関心を向け、調査を続けるきっかけとなる。増田自身、気象研究所在職中の1954年(昭和29年)のビキニ水爆実験後に、当時の研究室の面々とともに、水爆実験で成層圏まで吹き上げられた塵の影響で異常気象がおこる可能性を、火山噴火後の気象異変との類似性から検証する研究を行った経験があったことも影響した。 気象科学者として、核兵器の影響を研究すると同時に、核戦争阻止や核兵器全面禁止を求める運動に力を尽くす責任を感じていた増田は、1984年(昭和59年)7月に開催された科学者フォーラムで核の冬を日本で研究する重要性を訴え、同年10月には、原水爆禁止日本協議会の主催する「核戦争阻止、核兵器完全禁止、非核化、被爆者援護・連帯のための国際シンポジウム」において「核の冬-起りうる核戦争の被害」と題する特別報告を行った。折しもこの年、原水爆禁止1984年世界大会で核兵器全面禁止を課題の中心に据えた東京宣言が満場一致で採択されていた。 増田が核の冬について日本で研究する重要性を訴えた背景には、全米研究評議会の報告書や、アメリカ国防総省が核の冬研究に多額の研究費を支出している理由に、核の冬にならない程度に管理された核戦争のシナリオを読み取れたことが理由であった。ヒロシマ・ナガサキの原点から核の冬を認識する必要性を強く感じ、1985年(昭和60年)の原水爆禁止世界大会で知り合った広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会(黒い雨の会)の協力を得て、1,188人の住民を対象に書面アンケートを実施、そのうちの111人からは聞き取り調査も行い、被爆体験者の手記を分析する等、独自に調査を行った。これらの結果をまとめて1988年(昭和63年)~1989年(平成元年)に発表した増田の論考「広島原爆後の"黒い雨"はどこまで降ったか」では、黒い雨が降った範囲は戦後直後の広島気象台による暫定的な調査報告のおよそ4倍の広域におよび、この新説は「増田雨域」と呼ばれるようになった。「増田雨域」は、後の2020年(令和2年)の広島地裁及び広島高裁における「黒い雨」の被害をめぐる訴訟で、近郊部で黒い雨を浴びたにも関わらず、爆心地から離れていたために長らく被爆者と認められてこなかった原告側住民84人全員が被爆者と認められる有力な根拠のひとつとなった。 なお、この一連の裁判において、広島地裁判決後、国は広島高裁に控訴したが、厚生労働省は「黒い雨」の被害について援護対象区域の拡大を視野に再検討することを表明し、2020年(令和2)11月、援護対象区域の検証を行う11名による有識者検討会を設置した。この有識者会議のメンバーに増田も加わり、検討会議において、内部被爆の問題を重視し、黒い雨や微量物質が飛散した地域の正確な分布を出すのが決定的な判断材料になると主張している。
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