「要塞襲撃戦車」時の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 02:37 UTC 版)
「FCM F1」の記事における「「要塞襲撃戦車」時の計画」の解説
委員会では緊急に重戦車のコンセプトを復活させたが、それに適用できるのは45t戦車の計画のみであった。また近代的な要塞の攻略に最適化された戦車を区別して「Char d'Attaque des Fortifications」(直訳すれば要塞襲撃戦車)とした。この車両は、砲塔に高初速砲を搭載するべきであった。ただし自身は対戦車砲に耐えるものとされた。速力は二義的なものとみなされ、最大10km/h程度と推測された。だが、超壕能力や渡渉能力は優れていなくてはならない。こうすると、結果は過度にかさばる車両になるはずで、本車はモジュール方式を採用し、区画ごとに分割輸送できなければならないとされた。1938年5月4日、「Direction des Fabrications d’Armement」(直訳で兵器生産部)ではこれをシャールFと区別してシャール H計画と呼ぶよう提案している。だがこれはオチキス H35との混同を招く少々の危険から拒否された。 フランスの最高司令部は1938年4月に委員会の計画を了承し、詳細の検討作業のため、第二の委員会の任命を進めていた。またこの新しい委員会は、結局45t戦車は効果的では無いのではないかという疑問点の検討も担当していた。1938年5月9日の最初の会合で、委員会は戦術的な要求から、砲塔に75mm砲を備え、全周に120mmの装甲が必須であるとの結論に速やかに至った。これでは重量45tに甘んじることはできなかった。さらに一方で、登坂や縦走能力を旧式のシャール 2Cと等しくするにさえ、結果は150tから200tの巨大化が予想された。これでは車両の区画をモジュラー化する設計としても、輸送が実現困難になると予想された。したがって空虚重量45tの車体を用い、65t級の車両をさらに模索することが決定された。 1938年の第二回会合で、幾つか問題となる資料が検討された。大半の橋の通行可能な最大重量は個車35tであり、そのため新しい戦車は特製のポンツーンを用いて河を渡す必要があるとされた。ドイツ側の対戦車壕はおよそ幅7mで設計されていると判明しており、そこで非常に長々しい車両が必要であると思われた。とはいえ既存の鉄道用貨車は最大100tを輸送できた。またドイツ軍の強力な88mm砲を見るに、120mm厚の装甲でも十分ではないとの予想が指摘された。委員会では重量56tの「char minimum」(最小の戦車)を超壕能力の不足から拒否した。さらにボワロ技師による先進的な120t連結式戦車を製造する提案も破棄された。2つの選択肢が残された。重量89tで2部分に分解できる「最小の戦車」、そして重量110tで長さ8m、超壕能力を備えた「フレーム戦車」である。後者のデザインは、第一次大戦中にアメリカで製造されたスケルトン・タンクをおおまかになぞるもので、ただし重心を移動させるため、中空式の無限軌道のフレームに沿って本体部分を動かせるという特徴が加えられていた。 1938年9月、最高司令部は両車の実現性につき、フランスの製造社による速やかな研究開始を指示した。ARLには「最小の戦車」の開発計画が与えられた。ARLは1939年5月に最初の設計案を提示した。これは重量120t、2部分割のモジュール式で構成され、さらに火砲または火炎放射器で武装できた。委員会は砲戦車のみが検討に値すると決意したが、歩兵の襲撃に対する防御として、後部に第二砲塔が必要であるとした。またこの計画はシャール F1の計画とよく似ており、おそらく両計画を統合すべきだろうと言及した。
※この「「要塞襲撃戦車」時の計画」の解説は、「FCM F1」の解説の一部です。
「「要塞襲撃戦車」時の計画」を含む「FCM F1」の記事については、「FCM F1」の概要を参照ください。
- 「要塞襲撃戦車」時の計画のページへのリンク