「西遼派」としてのジャムカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:23 UTC 版)
「ジャムカ」の記事における「「西遼派」としてのジャムカ」の解説
近年の研究では、12世紀末のモンゴル高原では東の金朝と西の西遼がそれぞれ影響を及ぼしており、モンゴル、ケレイト、タタル、ナイマンといった有力部族間の抗争は金と西遼という二大大国の代理戦争という側面を有していたとことが明らかにされている。そして、テムジンとジャムカこそがモンゴル高原東方における「金朝派」と「西遼派」の代表的人物であったと考えられている。 1196年、テムジンはそれまで「西遼派」であったケレイト部のトオリルを「金朝派」に引き込み、金朝軍・モンゴル軍・ケレイト軍の3軍合同によって「オルズ河の戦い」でタタル部に勝利した。この戦いの功績によってトオリルとテムジンはそれぞれ「オン・カン」と「ジャウト・クリ」という称号を金朝から与えられ、金朝との関係を更に深めた。 金朝との友好関係を確立したケレイト−モンゴル同盟(「金朝派」同盟)は周辺諸部族を討伐して勢力を拡大し、モンゴル高原東方では「金朝派」が優勢になりつつあった。これに対し、モンゴル高原東方の「西遼派」が結集して行われたのが、1201年の「ジャムカのグル・カン推戴」であったと考えられている。実際に、この時ジャムカを推戴したコンギラト、カダキン、サルジウトといった諸部族はかつて西遼の創始者耶律大石を助けた諸部族でもあり、また「グル・カン」という称号も西遼皇帝の称号を意識したものと考えられている。 また、『金史』には1196〜1199年頃に「障葛」という人物が金朝の辺境を攻撃したことが記されているが、この人物はジャムカであり、この軍事行動は1196年の「オルズ河の戦い」における「金朝派」の拡大に対する報復行為であると考えられている。
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