「白いウルフ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:45 UTC 版)
1986年11月場所において4回目の入幕を果たすと、差し身の鋭い速攻相撲を武器に活躍し、その11月場所で西前頭13枚目の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の敢闘賞を獲得し、続く1987年1月場所でも東前頭4枚目の位置で横綱・双羽黒を破る金星を挙げて8勝7敗と勝ち越して初の技能賞を獲得した。初の三役となる東小結に昇進した1987年3月場所では、2横綱(千代の富士・双羽黒)・4大関(北天佑・大乃国・朝潮・若嶋津)を破る大活躍で「益荒雄旋風」を巻き起こした。一時は優勝も期待されたが終盤5連敗し、最終的には9勝6敗の成績で終えたものの初の殊勲賞を獲得した。後に益荒雄の弟子となった阿武咲が2017年9月場所の優勝争いに加わった際には、益荒雄と同時代を幕内で過ごした逆鉾(現・井筒)が相撲雑誌のコラムで「あのときは"益荒雄旋風""白いウルフ"と言われましたが、阿武咲も一敗で中日まで突っ走りました。つくづく師弟というのはどこかでつながっているんだなと思います」としみじみ語っている。 この時期には、横綱・千代の富士のニックネーム「ウルフ」になぞらえて一般からの公募により付けられた「白いウルフ」というニックネームでも知られるようになった。また、益荒雄が白星を挙げると地元である糸田町で花火が打ち上げられるようになり、テレホンカードもつくられ、それまで炭鉱不況、糸田線廃止と暗い話題ばかりだった糸田町に湧きあがった益荒雄の人気はますます過熱していった。東小結に番付を据え置かれた1987年5月場所でも2横綱(千代の富士・双羽黒)・2大関(朝潮・若嶋津)を破り、9日目には西関脇の旭富士に勝利し、10日目には大関取りが懸かった東関脇の小錦を2度突っ掛けた後に立合い一閃の蹴手繰りで破るという大活躍を見せて10勝5敗の成績を挙げ、4場所連続での三賞受賞となる2回目の殊勲賞を獲得した。続く7月場所では自己最高位となる西関脇に昇進したものの、周囲の期待から大きくかけ離れた4勝11敗の成績に終わった。 1987年9月場所で大乃国に寄り倒しで敗れた際に右膝の靱帯を痛めて途中休場し、この場所から怪我との戦いが続いた。翌11月場所は公傷が認められ、1988年1月場所において再起して2場所連続して9勝6敗の成績を挙げたものの、西前頭筆頭の位置で迎えた同年5月場所において小錦に押し倒しで敗れた際に再び右膝の靱帯を痛めて途中休場し、強行出場してさらに故障箇所を悪化させたために、以後は勢いも下降してしまった。その後は1989年3月場所に2回目の敢闘賞を獲得したものの、三役への復帰は果たせず、十両で大敗を喫して幕下陥落が濃厚となった1990年7月場所を最後に29歳で引退した。引退後は寺尾が所有する年寄名跡を借りて年寄・錣山を襲名して押尾川部屋の部屋付き親方となった。
※この「「白いウルフ」」の解説は、「益荒雄広生」の解説の一部です。
「「白いウルフ」」を含む「益荒雄広生」の記事については、「益荒雄広生」の概要を参照ください。
- 「白いウルフ」のページへのリンク