「江田ビジョン」と構造改革論とは? わかりやすく解説

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「江田ビジョン」と構造改革論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:01 UTC 版)

江田三郎」の記事における「「江田ビジョン」と構造改革論」の解説

1960年総選挙の頃より、江田構造改革論社会党路線の軸に据えようとした。これは、日本社会改革積み重ねることによって社会主義実現しようとする穏健な考え方で、これまで権力獲得過程曖昧であった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、労農派マルクス主義拘泥する社会主義協会がこれに反発し江田若手活動家たちの台頭恐れた鈴木茂三郎佐々木更三らも構造改革論反対唱え始める。 1962年栃木県日光市開かれた全国活動家会議講演した際、日本社会党主導将来日本目指すべき未来像として アメリカ平均した生活水準の高さ ソ連徹底した生活保障 イギリスの議会民主主義 日本国憲法平和主義挙げ、これらを総合調整して進む時、大衆結んだ社会主義生まれるとした(「江田ビジョン」)。これが新聞報道されると話題となり、江田雑誌エコノミスト』にこの講演をもとにした論文発表し世論圧倒的な支持得た。 しかし、民主社会党西尾末広がこれを1962年11月21日支持表明したことで、社会党左派反発佐々木更三は『新し社会主義のために』31号で「江田ビジョン」を「民社党変りがない」と批判した)。社会党内では従来社会主義解釈逸脱するものとして批判決議採択され江田書記長辞任して組織局長に転じたその後は、河上派・和田派と構造改革派形成しながら、佐々木派との権力闘争闘っていくが、1963年総選挙の際に江田衆議院議員転じようとした際、和田と同じ選挙区(旧岡山1区)から出馬しようとしたことから和田怒りを買い、和田派との連携上手くいかなかった(結局江田は旧岡山2区から出馬した)。 同年、「江田ビジョン」の反響脅威危機感抱いた自民党石田博英により執筆された「保守政治ビジョン」が『中央公論』で発表される1966年委員長選挙において僅差佐々木更三敗れその後何度も委員長選挙挑戦したが、ついに委員長となることはなかった。 詳細は「日本社会党委員長#日本社会党委員長選挙の結果」を参照 1967年副委員長1968年に再び書記長となったが、この頃には右派左派派閥抗争によって党の組織疲弊しており、民間企業における労使協調路線拡大によって社会党支持基盤掘り崩されていた。1969年総選挙では、社会党は140議席から90議席へと議席数を激減させる大敗喫した

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