「江田ビジョン」と構造改革論
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「江田三郎」の記事における「「江田ビジョン」と構造改革論」の解説
1960年総選挙の頃より、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようとする穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程が曖昧であった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田ら若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱え始める。 1962年、栃木県日光市で開かれた党全国活動家会議で講演した際、日本社会党主導で将来の日本が目指すべき未来像として アメリカの平均した生活水準の高さ ソ連の徹底した生活保障 イギリスの議会制民主主義 日本国憲法の平和主義 を挙げ、これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれるとした(「江田ビジョン」)。これが新聞報道されると話題となり、江田は雑誌『エコノミスト』にこの講演をもとにした論文を発表し、世論の圧倒的な支持を得た。 しかし、民主社会党の西尾末広がこれを1962年11月21日に支持表明したことで、社会党左派が反発(佐々木更三は『新しい社会主義のために』31号で「江田ビジョン」を「民社党と変りがない」と批判した)。社会党内では従来の社会主義の解釈を逸脱するものとして批判決議が採択され、江田は書記長を辞任して組織局長に転じた。その後は、河上派・和田派と構造改革派を形成しながら、佐々木派との権力闘争を闘っていくが、1963年の総選挙の際に江田が衆議院議員に転じようとした際、和田と同じ選挙区(旧岡山1区)から出馬しようとしたことから和田の怒りを買い、和田派との連携は上手くいかなかった(結局、江田は旧岡山2区から出馬した)。 同年、「江田ビジョン」の反響に脅威・危機感を抱いた自民党の石田博英により執筆された「保守政治のビジョン」が『中央公論』で発表される。 1966年の委員長選挙において僅差で佐々木更三に敗れ、その後何度も委員長選挙に挑戦したが、ついに委員長となることはなかった。 詳細は「日本社会党委員長#日本社会党委員長選挙の結果」を参照 1967年に副委員長、1968年に再び書記長となったが、この頃には右派・左派の派閥抗争によって党の組織は疲弊しており、民間企業における労使協調路線の拡大によって社会党の支持基盤も掘り崩されていた。1969年の総選挙では、社会党は140議席から90議席へと議席数を激減させる大敗を喫した。
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