「大正ロマン」を象徴する文化人
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「大正ロマン」の記事における「「大正ロマン」を象徴する文化人」の解説
年代が短いこともあり、大正時代に限ってのみ活躍した人物というものを挙げるのは難しいが、以下のような明治から昭和への過渡の時代に生きた人物の名が挙げられ、この時代を彩る数々の芸術作品や新思潮が生み出された。 竹久夢二・高畠華宵・西條八十・野口雨情・北原白秋・中山晋平・山田耕筰・島村抱月・松井須磨子・小山内薫・倉田百三・久保田万太郎・室生犀星・萩原朔太郎・芥川龍之介・武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎・菊池寛・直木三十五・谷崎潤一郎・中里介山・阿部次郎・吉野作造・長谷川如是閑・宮武外骨・大杉栄・伊藤野枝・平塚らいてう・島崎藤村等… 特に「竹久夢二」に限っていえば、彼の場合、実質的に活躍した年代が大正期と重なり、その思索や行動、そして作品において時代の浮き沈みと一体化しており、この時代とともに生きた人物であり、「大正ロマン」を代表する名として、しばしば掲げられる。彼の絵を表紙に使ったセノオ楽譜は一世を風靡したといわれる。 また、「大正ロマン」は大衆性や庶民的な部分で捉えられる傾向が強く、「白樺派」に属する人々らについては直接的に関連付けられることは少ないが、その自由性や耽美性、明治以降のロマンティシズムにおいて大いにその牽引力となったと思われる。特に1923年(大正12年)に白樺派の人気作家・有島武郎が愛人の波多野秋子と軽井沢の別荘で情死した事件は、当時世間を大いに賑わせ、大正期に流行した自由恋愛や情死・心中事件を代表する出来事となった。 「中里介山」においては、1913年(大正2年)より大長編小説『大菩薩峠』の新聞への連載を始め、昭和に至るまで脈々と書き続けられ、未完のままに終わるが、大衆娯楽小説の出発点ともされており、大佛次郎の『鞍馬天狗(1923年(大正12年) - )』や林不忘の『丹下左膳(1927年(昭和2年) - )』などの作品連載発表に先んじて、大衆文化(サブ・カルチュア)の創生に大きく影響を及ぼした。 1913年(大正2年)、劇団「藝術座」を旗揚げした島村抱月と松井須磨子の、数年後の病死~後追い自殺(1918年(大正7年) - 1919年(大正8年))に至る関係においては、劇団や演目への好評が大きいだけに政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激し、須磨子の歌った「命短し恋せよ乙女 (ゴンドラの唄)」に乗せて、後の芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む元となった。 1916年(大正5年)の「日蔭茶屋事件」から同12年の「甘粕事件」に至る間の、思想家・大杉栄と女性解放活動家・伊藤野枝を取り巻く動きについては逐一新聞などで報道され、有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなったが、一方で時代の不安な空気の中で、自由の行く末に暗い展望を投げかける契機ともなった。 「川端画学校」は1909年(明治42年)に東京小石川に設立された私立の画塾ではあるが、1913年(大正2年)に創設者の川端玉章が逝去したのちも、芸術や都会の文化に憧れる若者を各地から集めて、太平洋戦争(大東亜戦争)さなかの廃校に至るまで、画家のみならず多くの才能を輩出した。
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